水もしたたる二枚目というのはこの人のようなスターのためにある言葉ではないか。宝田明の自伝「銀幕に愛をこめて/ぼくはゴジラの同級生」(構成のむみち、筑摩書房)のなかのスチール写真(「美貌の都」、1957)を見てつくづくそう思った。額、鼻梁、口もと、あごの線どれをとっても完璧である。

 

 一方、表紙カバーの近影は味のある実にいい表情をしている。半分白いあご鬚がよく似合う。

 

 1934年4月29日、朝鮮・清津(せいしん)(チョンジン)生まれ。旧満州ハルピン(地名書中の表記通り)で敗戦を迎える。ソ連兵の銃撃を脇腹に受け命とりになりかねない大怪我を負っている。この体験は凄絶である。初めて知った。

 

 46年、敗戦の翌年、多くの苦難を乗り越え故国にたどりつく。

 

 映画入りのきっかけは、53年、都立豊島高校3年生のとき、人に薦められるまま東宝ニューフェイスに応募し、幸運にも狭き門を突破したことから訪れた。宝田に受けてみるよう促したのは学校の卒業アルバムを請け負っていた街のいわゆる写真屋さんだという。

 

 59年、デビュー3作目で会社からいよいよ主役だよと『ゴジラ』の台本を渡される。思わずその怪獣になるのですかと聞き返したというからおかしい。演じた役は純情で熱血漢、技師の緒方秀人。自伝の副題はこのエピソードに由来する。

 

 宝田は〝歌うスター〟でもある。主演映画の主題歌を自ら歌ったケースも多々ある。撮影所の仲間たちとキャバレーなどに飲みにいき座興で歌っているうちに、あいつは歌えるということになったらしい。地方の封切り館で初日挨拶をしなければならないときなど、アコーディオン一丁の伴奏でよく歌ったそうだ。

 

 60年代、ミュージカル時代到来とともに宝田は舞台にも進出する。ミュージカル・デビューは、64年、新宿コマ劇場での『アニーよ銃をとれ』だった。アニー役の江利チエミの相手役を務めたのだが、ミュージカル初出演とは思えない颯爽たる姿が目に浮ぶ。自伝に曰く。

 

 「僕はハイバリトンで、上はF、頑張ればGくらいまで、と非常に広い音域をカバーできたんです。つまり主役をやるのに必要な音域をクリアできた事が幸運だったと思いますね」

 

 朝日新聞書評欄でこの本をとり上げた横尾忠則氏は、宝田の一生を「人生を思い切り遊ぶ一輪の雑草」と総括していたが、けだし名言だと思う。ちなみに「一輪の雑草」は宝田本人の言葉に基づく。

 

 スターとしての一生を貫くには、あたえられた人生と思い切り遊ぶだけの余裕が必要ということでもある。

 

  (オリジナル コンフィデンス  2018/8/27号 コラムBIRD’S EYEより転載)