去る3月28、29日、日生劇場で越路吹雪37回忌特別公演「越路吹雪に捧ぐ」が上演されました。

 

 寿ひずる、剣幸、涼風真世、真琴つばさら越路の宝塚の後輩たちが、越路ゆかりのシャンソンを熱唱すれば、松本幸四郎、坂東玉三郎、草笛光子、前田美波里らスペシャル・ゲストたちは、想い出の秘話を披露するというとても豪華なステージでした。

 

 その公演パンフレットに私が小文寄稿しましたので、ここに再録いたします。

 

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     フィナーレで玉三郎を中心に全員勢ぞろいした出演者たち。

 

 

 四度、五度、六度……、幕が開いては閉まり閉まっては開く。そのたびにイヴニングドレスの裾をひるがえし登場する越路吹雪。客席のあちこちから待ってましたとばかり掛け声が飛ぶ。

 

 あのコーォちゃんという掛け声には独特のイントネーションがあった。それを誰もが心得ていたのだろう、その抑揚をはずす人はひとりもいなかった。

 

 文字で書くのはとても難しいけれど、やって見せろと言われたら、私だって出来ますよ。

 

 掛け声も拍手も一段落して、ようやくアンコールに入る。リサイタルでのアンコール曲はいつも決まっていた。エディット・ピアフ作詞、マルグリット・モノー作曲、岩谷時子訳詞「愛の讃歌」。ただし編曲だけは毎回違っていた。音楽監督でピアノ奏者(時にはアコーディオンも弾く)で夫君でもある内藤法美氏が、そのたびに新しい装いの「愛の讃歌」を客席に届けようと編曲に腐心したからだ。

 

 確かに新編曲の「愛の讃歌」を越路が歌うことは、私たち聴くほうにとって、彼女とこの曲両方の今まで知らなかった側面を知るという歓びがあった。それだけに常連客には前奏から注意深く耳を澄ます人たちが沢山いたようだ。

 

 しかし、幕内には「毎回、アレンジが違うんじゃあ、歌うほうの負担は大きいだろうなあ」と越路に同情する連中が結構いたと聞いている。

 

 ここで唐突に太宰治の名文句を引き合いに出すのもなんだけれど、あえて皆さんご存知の「富士には月見草がよく似合う」にのっとって、私はこう言いたい。

 

「日生劇場には大輪、深紅の薔薇がよく似合う」。「大輪、深紅の薔薇」とはもちろん、われらが越路吹雪の私なりのたとえである。

 

 日生劇場が開場したのは1963年10月だから、すでに53年前、半世紀以上も昔のことになる。しかし、その後、外観内装を問わず、これほど豪奢で優雅、かつ気品のある劇場が日本のどこかに建てられたであろうか。日生は今もって美しいたたずまい、どっしりとした存在感において日本一の劇場である。それどころか、私には、日生に匹敵する劇場が世界のどこかにあるとは到底思えない。

 

 私は、この劇場の席に着くたびに、まずはアコヤ貝が妖しく輝く天井を見上げてしまう。ガラスモザイクと金箔の壁面にもうっとりとせずにいられない。

 

 もっとも舞台に立つ側からすれば、観客席の内装が美麗を極めるというのは心穏やかならぬものがあるのではないか。

 

 正直なところ、日生でリサイタルを開いても大抵の歌手がここの天井と壁に負けてしまう。私は断言する。負けなかったのは越路ただひとりだ、と。

 

 越路は、ここ日生で、こけら落としから2年後の65年10月29~30日、計3回、初めてのリサイタルをおこなった。最後のリサイタルとなったのは〝80スペシャル〟(80年3月4~28日、計22回)である。そして、同じ年の11月7日、あわただしく56歳の生涯を閉じる。あまりにも生き急ぎ過ぎる一生であった。

 

 パーソナル・マネジャー兼作詞家として一心同体だった岩谷時子さんが、日生劇場の記録をもとにカウントしたところによると、この劇場での越路リサイタルは合計505回に及ぶという(『日生劇場の三十年』所収「日生劇場と越路吹雪、そして私」)。

 

 それプラス『結婚物語』『アプローズ』など主演ミュージカルが5本。更に『越路吹雪ドラマチック・リサイタル(愛の讃歌―エディット・ピアフの生涯)』というリサイタルとミュージカルを異種配合したような舞台もあるが、多分、岩谷さんはリサイタルに勘定しているにちがいない。

 

 いずれにせよ、リサイタル505回というこの数字は、越路吹雪が日生劇場といかに相性がよかったか、その事実を端的に物語っていると思う。

 

 先の岩谷さんのエッセーには、私とまったく同意見の次のような個所もある。

 

 「ながい年月、彼女のマネージャーであり40年近い友人でもあった私の〈ひいきめ〉かも知れないが、越路さんほど日生劇場に似合う人はいなかったような気がする」

 

 先ほど私は日生劇場の特色として豪奢、優雅、気品といった文字を連ねたが、それらの文字はそっくりそのまま越路の個性的な芸風を言い表そうとするときにも当てはまる。だとしたら、それはどのようにしてはぐくまれたのか。彼女の遺伝子と外部のどのような要素とが化学反応を起こし、形作られたのか。

 

 なんと言っても宝塚での体験がそのベースになっていることだろう。彼女独特の妖しい色気は、男役の修業抜きにしては考えられない。シャンソンとの縁だって宝塚だ。戦後、多くの米軍将校が彼女のファンになり、よくジャズの譜面をプレゼントしてくれたというが、それだって宝塚の舞台がとり持つ縁だった。

 

 思いつくまま越路の人生と芸風に少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる人々の名前を挙げておく(岩谷時子、内藤法美を除く)。

 

 小林一三、深緑夏代、秦豊吉、藤本真澄、市川崑、真木小太郎、松井八郎、佐藤一郎、松岡辰郎、浅利慶太……。エディット・ピアフも入れるべきかもしれない。

 

 ことしは越路没後37年に当たる。岩谷さんは生涯の盟友についてこうも記している。

 

 「老いる日もまたず、現役のまま歌いつづけて世を去ってしまった」が、「多くの功績を残して逝った幸せな人だった」と。

 

 私は思う、逝って後も越路吹雪の魂は、この日生劇場のどこかにそのまま棲みついてしまっているのではないか、と。