「上を向いて歩こう」の裏に隠れる歴史の皮肉 | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

「上を向いて歩こう」の裏に隠れる歴史の皮肉

  「ユリイカ」10月号が永六輔の追討特集を組んでいる。この雑誌は現代詩の専門誌としてつとにその存在を誇っているが、内外の文化事象、旬のクリエーターにも目配りがいい。マンガ文化とも積極的にとり組んでいて、ことしの3月号は古屋兎丸特集だった。音楽ものでは梶浦由記(2015年11月号)、デヴィッド・ボウイ(16年4月号)をとり上げた号がとても勉強になった。

 

 さて永六輔追悼号である。柔和な微笑みを浮べ、刺し子のはっぴ?姿で、マイクに向う表紙の写真が、故人の粋な人柄を感じさせてあまりある。表2の口元を片手で覆ったクローズアップには「含蓄の笑み」というタイトルがついている(提供大石芳野)。ほかにも昌子夫人とのツーショットなど多数。若い時は結構精悍な顔つきをしている。

 

 音楽界での活躍ぶりについては佐藤剛「作詞家だったことが一度もなかった永六輔」、北中正和「永六輔が音楽に残したもの」がくわしい。今後、作詞家永六輔を語るときの基礎資料となるだろう。

 

 編集者として永の伴走者だった矢崎泰久「わが青春の永六輔」には、「上を向いて歩こう」は「樺美智子に捧げる鎮魂歌のつもりだった」、ヒットして、「永さんの胸中は複雑そのものだった」とある。

 

 60年安保闘争も樺さんの非業の死も、今や半世紀を超える遠い昔の出来事として風化されつつある。しかし風化させてはならないし、作詞家の創作意図はしっかり記憶されてしかるべきだ。

 

 それにしても「ビルボード」誌ヒットチャート第1位に輝いた唯一の日本の歌が、日米安保紛争の悲しい事件に触発されて生まれたとは、なんという歴史の皮肉だろう。

 

 矢野誠一「感性のひと・六輔さん」で語られる俳人永六輔も興味深い。1969年以来、故人は入船亭扇橋を宗匠とする東京やなぎ句会の同人としてその道に励んで来た。ところが永は句作に必要な歳時記を持参したことがなかったという。すべて無手勝流?更に俳句のせいで作詞から足を洗うことにもなる。

 

 「言葉を五・七・五、十七文字にけずることを始めたら、作詞も俳句になってしまうのである」と永は書き残している。永作詞のヒット曲は「上を向いて歩こう」を筆頭に「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」などすべて、俳句に精進する前に書いたものだそうだ。

 

 私自身、故人とは親しいとは言えないまでも昭和30年代初めからお互いに知る仲だった。2012年1月、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」が再演された際、パンフレット用に対談したのが最後の出会いだった。

 

改めて合掌。

 

(オリジナル コンフィデンス  2016 10/24号 コラムBIRD’S EYEより転載)

 

              柔和な顔つきながら、からだ全体に独特の風格が漂う

                          (「ユリイカ」10月号表紙より)。