この夏、2本のきわめて優れた音楽映画が公開された。ともにドキュメンタリー映画の秀作で、劇映画にはないリアリティーにあふれていた。

 

 若くして逝った希代の歌姫エイミー・ワインハウスの生と死に迫った『AMY エイミー』、不世出のタンゴ・ダンサー、マリア・ニエベスとフアン・カルロス・コペスふたりの生涯を再現した『ラスト・タンゴ』である。

 

 両作品を見たあと、私の頭のなかに渦巻いているひとつの命題がある。スターとは、スターの人生とはなにかという永遠の大命題である。

 

 『AMYエイミー』は、ワインハウスの酒と麻薬に溺れていく日常を容赦なく映し出す。新しい楽曲を生み出し、それを歌としてどう表現するかという苦悩は、私たち凡人の想像を遥かに超えるものだったろう。いきなりセレブ入りした生活の激変ぶりにも耐えられなかったのでは。

 

 映画を見る限り、周囲にドラッグなどの泥沼から彼女を積極的に救い出す気配はない。金の卵の彼女の意には逆らえなかったのか。

 

 その一方、マネージメント側は、かならずしもエイミー本人が望んでいない大衆路線を突っ走らせようとする。数万人の聴衆を前に戸惑う彼女の胸のうちを推し量らずにいられない。

 

 彼女の技巧的に揺るぎない、かつ情感たっぷりの歌いぶりが十分にエンジョイ出来る作品でもある。

 

 『ラスト・タンゴ』のふたりは、マリア1934年、フアン31年生まれ、46年ペアを組み、97年までコンビを続ける。ふたりが出逢ったとき、マリア14歳、フアン17歳。フアンは「ストラディヴァリウスを手に入れた」と思ったそうだ。

 

 マリア・ニエベスはフアン・カルロス・コペスと踊るとき、単にダンスの動きだけでなく精神的にもいかに彼と一体化するか、命を削った。その突き詰めた思いがオフステージでの関係に波及しないわけがない。マリアの生涯は、公私にわたるフアンへの愛、その反動によってもたらされる憎しみとの連続だった。

 

 映画撮影時、80歳を迎えたマリアは自らの人生を振り返り、切々と、あるいは屈託なくすべての思いを吐露する。その存在感は生々しくもあり崇高でもある。

 

 もしエイミーが27歳で世を去ることなくマリアのように80歳を超えても元気にしていて、自らの人生を振り返るとしたなら、何を語るだろうか?

 

 スターとは類い希な才能、資質、運に恵まれた人々の謂である。並はずれた努力もしたであろう。だがその人生を覆った苛酷さも並ではない。ふたつの映画はスターたちの暗部を描いて興味尽きない。

 

(オリジナル コンフィデンス  2016 8/22号 コラムBIRDS EYEより転載)