「湯川れい子生誕八十年音楽評論家55年作詞家50年」お祝いの会の案内状が届いた  (6月17日、ホテルニューオータニ)。心よりお祝い申し上げる。

 

 湯川さんと私は2歳違い(もちろん彼女のほうが若い)の同世代で、戦後体験など重なり合う部分が多い。和田靜香著『評伝湯川れい子音楽に恋して』(朝日新聞出版)に「ジョー・スタッフォードの『ユー・ビロング・トゥー・ミー』は今でもそらで歌える」とあるが、私も同様に歌詞をぜんぶ覚えている。

 

 『天井桟敷の人々』 『欲望という名の電車』など公開時に見て心揺さぶられた映画も変わらない。

 

 1961年1月、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが来日したおり、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」の依頼でインタビュー記事を書く。これがもの書き業のスタートとなったようだ。

 

 湯川さん以前にはジャズ評論家はいたけれど、アメリカン・ポップスを主な対象とする評論家はいなかった。そこがすこぶる新鮮だった。彼女の師匠筋の福田一郎氏は「ポピュラーを男のオレが書くと、ジャズの評論ができなくなっちゃう」と言っていたそうだ。

 

 湯川さんの仕事ぶりは多岐にわたる。なかでも72年にラジオ関東で始まり、長寿番組となった「全米トップ40」で、毎週シングル・チャートを紹介した功績は大きなものがある。この番組を通じてアメリカン・ポップスの魅力を知った若者たちがどれだけ多いことか。

 

 湯川さんと言えばエルヴィス・プレスリーである。歌いぶり個性ともに野卑で低俗と貶められていたデビュー時から、南部出身の白人にもかかわらず黒人音楽に偏見のないその姿勢を評価し続けて来た。当時、エルヴィスの真価が理解出来なかった私などとは雲泥の差である。

 

 エミー・ジャクソン「涙の太陽」(65年4月)以来の作詞家としての足跡についても、改めて語るまでもない。井上忠夫(大輔)と組んだシャネルズ「ランナウェイ」他一連の曲は、ひときわ精彩を放つ。ドゥワップと日本語歌詞の無理のない融合は、長年アメリカン・ポップスに接して来た彼女なればこそ。

 

 湯川さんの家系は代々海軍々人で父は海軍大佐、山本五十六も縁戚だという。そのような血を引く女性が、敗戦後アメリカ音楽のエキスパートとなった。これは歴史の皮肉か、いたずらか?

 

 この湯川さんの人生を物語の主軸にし、彼女が係わり合った洋楽・邦楽曲をとり込んだら、戦後70年をたどる異色のカタログ・ミュージカルが作れるのでは。マイケル・ジャクソンの映像出演もあったりしてね。

 

  (オリジナル コンフィデンス  2016 5/23号 コラムBIRD’S EYEより転載)

 

        湯川さんの著作の数々と和田靜香さんの評伝 (左)です。