芸能プロとしてはもちろんだが、ミュージカル・プロデューサーとしてもホリプロの存在感、実績は揺るぎないものがある。『ラブ・ネバー・ダイ』から『スリル・ミー』まで幅広い演目を誇る。かたわら鹿賀丈史、市村正親、安蘭けい、濱田めぐみらスター級演技陣を抱えている。

 

ホリプロ・ミュージカルの原点は、1981年8月、新宿コマ劇場で初演された榊原郁恵主演の『ピーターパン』までさかのぼる。

 

同社編纂の「ホリプロ50年史あなたに逢えて、よかった」には、当時社長だった堀威夫さん(現ファウンダー・最高顧問)がブロードウェイの舞台を「和田アキ子に薦められ観劇した」とある。

 

しかし、堀さん本人の語る真相?はちょっと違う。

 

「アッコの線もあったかもしれません。ただ実際にこの企画を持ち込んでくれたのは、コマのプロデューサー北村三郎さんでした。コマ向きのブロードウェイ・ミュージカルということで彼に『ピーターパン』を推したのは、東宝のニューヨーク駐在だった大平和登さんです」

 

残念ながら北村、大平両氏とも故人である。大平さんは演劇評論家としても名を残している。

 

北村さんと二人三脚でこの企画を担うことになった堀さんは、81年1月、カンヌの音楽見本市MIDEMに参加したあと、コンコルドでパリからニューヨークに飛ぶ。なんでも明けすけの堀さんはこう語る。

 

「時差のせいで本番中ほとんど居眠りしてしまい、気がついたらフィナーレじゃないですか。お客の頭の上をピーターパンやほかの出演者がびゅんびゅん飛んでいるのに驚いた。それだけ見て、これはいけると思いました」。

 

堀さんが郁恵でやろうと決心したのはこの瞬間ではなかったか?

 

ところが、健康美に輝き、やや太目?の郁恵の起用に北村氏ら関係者全員から猛反対を喰らう。ボーイッシュなピーターパンのイメージではないというのだ。

 

堀さんには堀さんの譲れない事情があった。当時、アイドル歌手の“賞味期限”は3年と言われ、77年デビューの郁恵はすでにそれを超えていた。一日も早くファミリー・タレントに看板とイメージを切り替え、寿命を引き延ばしたいというのが堀さんの思惑だったようだ。

 

堀さんの周囲への説得、本人の渾身の努力が実を結び、舞台の出来、興行成績とも輝かしい成功を収めることになる。今も目をつぶると、コマの広くて大きな天井に舞う郁恵の姿が浮んで来る。

 

あのフライング技術の権利は考案者のピーター・フォイが持っていて、作品上演権とは別に請求が来る。堀さんにとっては予期せぬプラスアルファの出費だったにちがいない。

  (「 シアターガイド」2015年2月号より転載)

                宙に舞う榊原郁恵



ホリプロ ファウンダー・最高顧問 堀威夫さん