ただの『白鳥の湖』ではない。『マシュー・ボーンの白鳥の湖』と、振付・演出のマシュー・ボーンの名前が冠のように付く。
1995年ロンドン初演。日本公演も今回が三度目である。私はニューヨークで東京で5回は見ている。しかし、見るたびに雷に打たれたような衝撃を受ける。今度も改めて、20世紀から21世紀への架け橋的役割を果たす見事なバレエ作品、いや舞踊というジャンルを超えた優れた舞台芸術だと感銘を深くした。
もちろん、音楽は、多分に甘美で感傷的でもあるチャイコフスキーの原曲を使っている。ただし、脚本は大胆この上ない読み替えがおこなわれ、振付・演出もそれに沿って驚くべき革新的工夫がなされている。
これは、いつの時代かわからない、王子と白鳥のお伽話のようなロマンスではない。現代英国の皇太子と一羽の白鳥との痛切な悲恋物語である。それは多分に同性愛的恋愛を示唆するものでもある。
まずはすべての白鳥が男性ダンサーによって踊られることに、なんど見ても目が釘付けになる。そのダンスが優美ではないとは言わない。しかし、どちらかというと猛禽的逞しさがあふれ出ている。
ダンサーたちの両手が口嘴になり羽根になる。手首の曲げる角度ひとつとってもボーンの創意工夫が、ひしひしと感じられる。
見どころいっぱいである。たとえば、皇太子が女王のプレッシャーから逃がれ、遊び惚けるディスコの場面、セント・ジェームズ公園の地での皇太子とザ・スワンの出会いの場面など。
なかでもザ・ストレンジャー(通常の『白鳥の湖』の黒鳥)が突然登場する宮廷舞踏会シーンには心奪われる。参会者の間に闖入者が巻き起こす波紋が、実に精緻に描き出されるからだ。
ラストの皇太子の寝室の場面では、ドラマの緊迫感が一挙に高まる。プリンスに一勢に襲いかかる白鳥たちの群れ、プリンス救出のため仲間の白鳥たちと闘うザ・スワン。チャイコフスキーの音楽の劇的な悲愴感と見事に相呼応するなか、幕が下りる。終幕の衝撃度はオリジナルの『白鳥の湖』の比ではない。
作品の端々に見られる王室への皮肉な視線が、これまた大いに楽しませてくれる。必要以上に存在感を誇示する女王、マザコンから抜け出られない皇太子・・・・・。時には揶揄(やゆ)嘲笑も辞さないところに、むしろ英国々民の王室への愛着がうかがえなくもない。
衣裳デザインも目を見張る。舞踏会では女王のみ赤のドレス、他の男女は黒のヴァリエーションで競い合う。黒のなかに“紅一点”の効果、きわめて絶大だ。