森岩雄(1899~1979)。どちらかというと映画人である。日本映画界にプロデューサー・システムを導入、確立した人物として広く知られる。戦前から東宝の役員を務め、1962年には副社長にまで上り詰めた。

 

 60年代、菊田一夫専務率いる東宝演劇部がブロードウェイ路線を突っ走った時期、この森さんが台本翻訳者として名を連ねた作品が三つある。『王様と私』(初演梅田コマ劇場/65年=以下同じ)、『南太平洋』(新宿コマ劇場/66年)、『ラ・マンチャの男』(帝国劇場/69年)で、すべて名訳の誉れ高い。

 

 いずれも英語堪能の秘書高田蓉子さんとの共訳にしているあたりが、温厚篤実なジェントルマンの森さんらしくて微笑ましい。

 

 森さんは「私の芸界遍歴」(青蛙房/75年)という名著を残しているが、52年、戦後初外遊の折、ブロードウェイで夜な夜な舞台を見たときの思い出話が出て来る。「さすがに『南太平洋』が図抜けて感銘を与えてくれた」とある。

 

 『王様と私』の主役ユル・ブリンナーについては、「楽屋で暫く話をしたが、ずいぶん苦労した人のようであった」

 と書いている。

 

 副社長の激務を抱えながら、あえてブロードウェイ・ミュージカルの翻訳に手を染めたのは、このときの観劇体験があってこそと思われる。

 

 元来、森さんは文人肌の人で戦前にデュマの小説「椿姫」の翻訳書を出版しているし、久保田万太郎を宗匠に仰ぐ句会の常連でもあった。

 

 『ラ・マンチャの男』については、初演時、私は東宝の宣伝マンからこんな噂話を耳にしている。「ドン・キホーテ」の愛読者だった森さんが、役員会かなにかの折、菊田さんに上演が正式に決まったら翻訳は是非自分にやらせて欲しいと売り込んだ?というのだ。

 

 副社長が専務にこんな頼みごとをする、なんとさばけた、いい会社なんだろうと思ったものだった。

 

 また、いざ翻訳にとりかかるとき、原作の岩波文庫全6巻を読み直したとも聞いた。

 

 以上、3作品の最高責任者は菊田専務である。菊田さんのもと演出あるいは演出補を務めたのは中村哮夫さんだが、中村さんもまた久保田門下の俳人ということで、森さんとは浅からぬえにしで結ばれていた。中村さん曰く。

 「『王様と私』『南太平洋』のときは訳の変更をお願してもなんなく受け入れてくださった。でも『ラ・マンチャの男』は、もう少しやわらかくなりませんかとお頼みしても一切認めてくださらなかった。作品が作品だけに、あえて文語的表現にこだわられたのかもしれません」

 

 2014年夏も『王様と私』(主催:映画演劇文化協会)の全国ツアーがおこなわれたが、初演以来の森・高田共訳台本であることは言うまでもない。

 
 (「シアターガイド」10 月号より転載) 

 

 

1952年、森さんはユル・ブリンナー(左)を楽屋に訪ねている。