<前書き>

当ブログで7月29日、8月1日の2回、この夏大活躍する加山雄三をとり上げたところ、皆様から大きな反響をいただきました。実は私は、加山の俳優、歌手としての活躍ぶりをそのデビュー当時から知っています。

 

思えば映画スターとしてすでに人気者だった加山雄三が弾厚作名義の自作曲「君といつまでも」(作詞:岩谷時子)を引っ下げて、颯爽と登場したのは、1966年夏のことでした。歌手としてもたちまち凄い人気を獲得しました。まさに社会現象でした。その際、同時代の証言者のひとりで書いた記事を私の古いスクラップ・ブックからとり出し、今回と次回、お目に掛けたいと思います。1966年の時代風俗を知るささやかな手掛かりになるかもしれません。

 

加山は、この8月23日には日本武道館での公演を控えています。若大将が大暴れするのが今から大いに楽しみです。

 

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          加山雄三のヒットを支えるもの

 

  たいへんな加山雄三ブームである。「君といつまでも」がヒットしたときは、なに素人のまぐれ当たりさ、と知らんぷりを装っていた本職の歌手、作曲家も、その後、次々と加山の曲がベスト・セラーにランクされるとなると、心中、大いにおだやかでないにちがいない。

 

 ちなみに、六月中旬現在の「歌謡曲 レコード 売り上げベスト・テン」(日本楽器全国直営販売網調査)によると、なんと、おどろくなかれ、「蒼い月影」「お嫁においで」「君といつまでも」の順で、上位三位までを加山の曲が独占するというありさまである。

 

 それにしても、どうして、素人が手慰みに作曲した歌を素人の本人が歌って、こんな大ヒットになったのか。理由は、いくらでもつけることができるが、「君といつまでも」を初めとする加山もののヒットとエレキ・ギター・ブーム、フォーク・ソング・ブームとは、私の見たところ、無関係ではないように思える。

 

 あるいは、人はいうかも知れない。エレキ・ブームとフォーク・ブームとは、そもそも別のものではないかと。それをいっしょくたにして、加山ブームと結びつけるとはでたらめもはなはだしいではないか、と。

 

 しかし、エレキ・ブームもフォーク・ブームも、若い人たちが、自ら楽器を奏でることが、ブームの基盤になっているという点では、実は、なんら変わりがない。ただ時期的にエレキがフォークにやや先行したこと、エレキよりフォークのほうが、ファンの年齢層が高いことが違うくらいで、レコードを聞くだけでは満足しなくなった若者たちが、続々とアマチュア・バンドを結成したあたりは、むしろ大いに似通っているといえるのではないか。しかも、エレキもフォークも、奏でる楽器がギターとなれば、ふたつのブームの間に、共通点があるのは、当然というわけである。

 

 ところで、加山の作曲も歌も、たぶんにアマチュア的だからこそ、爆発的ブームを呼んだふしがある。エレキにせよフォークにせよ、その魅力にとりつかれた挙句、ギターをつまびくことを覚えた若者たちなら、新しいコードをさぐって、作曲の真似ごとをするくらいは、だれもがやっているにちがいない。おとなが知らないだけで、気のきいた若者なら、ギターを弾かないほうがおかしな時代だとすれば、加山ブームは、そういう潜在的なギター人口に支えられて、ここまで大きくなったということができる。

 

 私は、よく加山の歌について、「ほんとうに うまいんですか」という質問を受けるが、もしも、彼の歌が、玄人はだしの技巧の冴えを見せたものだったら、決してこんなブームにならなかったろう。弾厚作氏(作曲家、加山のペンネーム)の作曲が優れているかどうか、加山の歌がうまいかどうかという設問自体、ナンセンスのきわみだということを忘れてはなるまい。

 

 これまで歌謡界の人気スターだった橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫ら若手歌手が、三十歳に近い加山に、その座を奪われたことを、アンちゃんふうスターから坊ちゃんふうスターへの変遷というふうに、私は見る。

 

 加山の持ち味のお蔭で歌謡曲の品位が、少しでもレベル・アップしたとなれば、それだけでも加山雄三の功績はあったといわねばなるまい。

 

 

 

(初出は雑誌「宝石」1966年8月号、のちに拙著「流行歌の世界」<66年、音楽之友社>に収める)

 

 

加山雄三は今も現役バリバリです。