日本のミュージカルの歴史に夜明けと呼べる瞬間があったとしたら、ブロードウェイ・ミュージカル日本版第1号、『マイ・フェア・レディ』が初演されたとき以外あり得ない。それまでミュージカルと名乗っていた舞台がすべてまがいものに見えたからだ。

 

イライザ:江利チエミ、ヒギンズ教授:高島忠夫、ピカリング大佐:益田喜頓、A・ドゥーリトル:八波むとし……。1963年9月1日~29日、於東宝劇場。製作・演出の総指揮をとったのは、当時東宝の演劇部門を牛耳っていた菊田一夫氏であった。

 

私が観劇したのは、開幕して3、4日後だったと記憶する。アスコット競馬場の居並ぶ紳士淑女たちの姿が目に浮かぶ。一方、ヒギンズ教授の終幕の決めぜりふ、「ぼくのスリッパはいったいどこにあるんだい?」が、もうひとつストーンと胸に落ちなかったことも、いまだに気になっている。

 

この公演に先立つこと、およそ9ヶ月、1962年12月、朝日新聞紙上で菊田氏と石原慎太郎氏の間にこのミュージカルを巡ってちょっとした応酬があった。

 

紙上でのふたりの肩書きは菊田氏が東宝専務・劇作家、石原氏が作家・日生劇場企画担当取締役となっている。

口火を切ったのは菊田氏のほうであった。同作品の上演計画を発表したところ、

「上演権保管者の元に、いま東京において建築中の某劇場の使者が(多分親会社の出先機関を通じてでしょう)『東宝より高い値で買うから』と言って上演権をとりにおいでになったそうです。

(中略)知らせをきいて私は悲しくなりました。他人の考え出したプランを尊重しない一例がここにもある」(62年12月19日付け)。

 

これに対し石原氏は、日生劇場のプランは「翻訳上演」ではなく「ブロードウェーのキャスト・スタッフを呼んでの完全上演」で、「費用が高いのは当り前」(12月27日付け)と反論した。

 

そして更に石原氏は、日生は以前から上演権所有者CBSと交渉していて、東宝のプランに追従したわけではないこと、CBSに問い合わせたところ、まだ東宝に上演許可をあたえたわけではないことをも付記している。

菊田氏の文章で私が興味をそそられたのは、アメリカ側から「東宝劇場、梅田劇場二劇場二ヶ月上演買い切りに対し一万ドルではどうだ」と言って来たというくだりである。この相手の言い値に菊田氏は8千ドルにしてくれと値切ったようだ。1ドル360円の時代だから、1万ドルで360万円、8千ドルで288万円という勘定になる。

 

この金額が高いかそうでないかはさておき、現在のような売り上げのパーセンテージではなく、フラット・マネーでの交渉だったと見られる。

 

『マイ・フェア・レディ』は、冒頭に書いたように日本語上演でお目見得した。招聘公演がなぜ立ち消えになったか、裏事情を探ってみたい。

  
         
  (「シアターガイド」20149月号より転載)

 

 

      『マイ・フェア・レディ』の江利チエミ(左)と高島忠夫。息の合ったコンビでした。

             写真提供:一般社団法人 映画演劇文化協会