(前書き)

 77日、当ブログで国際文化交流に力を尽くしたプロデューサーの川添浩史さんをとり上げ、東京のイタリア料理の草分け、キャンティのオーナーだったことにも触れました。

 

 この店の創業は1960年、30周年の節目1990年に『キャンティの30年』(私家版)という“店史”を出版しています。渡邊美佐さん、安井かずみさん、今井俊満さん、村井邦彦さんら店の常連だった人たちが寄稿している興味深いメモワールです。

 

 私も一文を寄せています。今から24年前に書いた古い文章です。それに加えて回想されるのは更に古い60年代の思い出話です。

 

 あれから東京も、東京のグルメ事情も大きく変わりました。そんなまだ発展途上だった東京食文化の一端を知る手がかりになればと思い、その小文を再録することにしました。

 

 六本木界隈も今のように開けていなかった時代のひとこまです。

 

(本文)

 私は、あの晩のことを今でもきわめて鮮明に思い出す。その晩、ひとりぼっちでキャンティ(もちろん飯倉片町のほう、あの頃は西麻布の店はまだできていなかったから)の二階へ上がっていくと、窓際のテーブルにこれまたひとりぽつねんと店主の川添浩史さんがすわっていた。

 

 川添さんは、私に「ひとり?」と尋ねてから、ここにすわらないかというジェスチャアだろう、自分の前の椅子を指差した。川添さんは、例の麦藁の瓶からキャンティを私のグラスに注ぎながら、おもむろにこうつぶやいたものだ。

 

「たった今、イタリアからほんものの生ハムが届いたところなんだ。友人が運んできてくれたんだよ。アルプスの雪の上に転がしておいて作る正真正銘の生ハムだよ。まず食べてごらんなさい。」

 

 私が生まれてはじめてほんものの生ハムを口にしたのは、まさにその日のことなのであった。私がしげしげとキャンティへ通うようになったのは、昭和三十八年春からで、あれは、それからしばらく後のことと記憶するから、同じ年の秋か冬か、あるいはひょっとすると翌三十九年の春だったかもしれない。

 

 私は、あの時の生ハムのとろけるような舌ざわり、きいているかいないかわからないくらいのごくごく薄い塩味、うっすらとあくまで上品なピンク色の輝きなどをはっきり記憶に甦らすことができる。ヨーロッパから直行のほんものの生ハムを教えてくれたことひとつだけとっても、川添さんは、私の終生忘れ得ぬ人物と言える。

 

 今の若い人が聞いたら、たかが生ハムぐらいでなんと大げさなと驚くことであろう。しかし、私は、あの時、まぎれもなく目を見開かされたのである。

 

 昭和三十年代後半というと、ヨーロッパはまだまだ遠かった。川添さんのような西洋での生活経験のあるごく一部の人々をのぞいて、日本人のほとんどすべてが、ヨーロッパの食べものや飲みものについて無知と言ってよかった。今なら、生意気にも女子高校生の誰もが知っている生ハムでさえ、まったくと言っていいほど普及していなかった。それがうそ偽りのない日本の食生活事情だったのだ。

 

 実は、キャンティは、あの当時ではめずらしく“生ハムとメロン”の前菜をメニュウにのせているレストランであった。にもかかわらず、なぜ、あの時、川添さんは「ほんものの生ハム」とわざわざ断って私に御馳走してくれたのだろうか。

 

 衛生上問題があるということで、日本では役所によってヨーロッパと同じような生ハムを作ることが禁じられていたからだ。外国からの輸入も当然ながら許されていなかった。ヨーロッパ土産に生ハムを持って帰ったら、間違いなく羽田(成田はまだなかった)でとり上げられてしまっただろう。

 

 もちろん、微妙な差はあるにしても、現在、日本でもヨーロッパ産とほとんど違いのない生ハムが作られるようになった。二十数年たって食の有りようは大きく変化したのである。

 

 川添さんは、ことヨーロッパに関しては何についてもほんもの志向の人だった。本来ならば自分の店でもイタリアと同じ生ハムすなわちプロシュート・クルードを出したかったにちがいない。

 

 あの頃のキャンティの“生ハムとメロン”の生ハムは、イタリア産のほんものとくらべると色も香りも冴えなかった。そして何より塩味がきつかった。川添さんは、日頃からそれが残念でならなかったのではないか。

 

 川添さんは私にほんものの生ハムをすすめながら、

「ねえ、いつものうちのとは違うでしょう。これが、これがほんものなんだよ、アベちゃん」

 とやや咳き込むような調子で(川添さんは気分が昂じるといつもそうなるのだが)言ったものだった。

 

 さすがの川添さんも生ハムは密造するわけにいかなかったようだが、バジリコは自宅の庭に栽培しているということだった。せっせと大きくしては、その葉っぱを店に持ってくるという話を聞いた覚えがある。紀ノ国屋あたりへいけば、家庭用スパイスとしての乾燥したものはあったが、フレッシュのものなど手にいれようがなかったから、自家栽培という手段をとったにちがいない。

 

 といっても、自分の家の庭でできる量などたかが知れている。したがって、当時はキャンティといえどもスパゲッティ・バジリコのバジリコは、青紫蘇で代用されることが多かったはずである。

 

 キャンティというイタリア料理店が、東京は麻布・飯倉の一角に忽然と現れるまで、私たちが知っているスパゲッティといえば、トマト・ケチャップのどぎつい真赤な色ばかり目立つナポリタンか、挽き肉がどろりとかかったミート・ソースか、そのぐらいしかなかった。想像するに、このふたつのスパゲッティ料理は、戦後、アメリカ人が持ち込んだものにちがいない。イタリア人の食卓にのるパスタ料理とは似て非なるものであった。

 

 そんなわけで、スパゲッティ・バジリコひとつとってもそうだが、キャンティで初めて出会ったイタリア料理は、いかに私たちの舌と胃袋に驚きをあたえたことだろうか。今日の飽食の時代をごく当り前のものと受けとめている若い世代には想像もつかないことと思われる。

 

 私は、今、「私たち」という曖昧な言い方をしたが、意味するところは昭和三十年代のこの店の常連たち、とりわけ二十代、三十代の若者たちと理解願えれば有難い。そういう常連たちは、ここに通うたびにひとつひとつ、ミネストローネの素朴な風味からオーソブッコのこってりとした味わいまで、心ゆくばかり、たんのうしつつ、自らの味覚のインデックスをふやしたものだった。私とてその例外ではない。

 

 こと私自身に限って言えば、キャンティの料理にひとつひとつ接していくことは、見知らぬヨーロッパの新しい側面を、いながらにして次々と発見することとほとんど同じくらいの貴重な体験であり、かつ重要な意味合いを持っていた。端的に言うと、私のヨーロッパ体験の原初的な部分は、キャンティの一皿一皿の料理から始まったということである。

 

 川添さんのほんもののイタリア料理をという志がどんなにか私のヨーロッパへのあこがれを募らせたことだろうか。

                 店のたたずまいは今も1960年の開店当時のままです。

                 『キャンティの30年』より。


                        資料価値も高い“キャンティ史”です。