本場のスタッフ、キャストによるミュージカル来日公演は、1964年11月9日~12月27日、日生劇場でおこなわれた『ウエストサイド物語』をもって嚆矢(こうし)とする。

 そのあと66年『ハロー・ドーリー!』(東宝劇場)、68年『オリバー!』(帝劇)と続く。

 日生『ウエストサイド』のポスターなどのクレジットを見ると、NISSEI THEATRE in association with PAUL SZILARD PRODUCTION , INC.と記されている。

 ポール・ジラードとは何者か?ハンガリー出身、米国籍の元クラシック・バレエのダンサーで、当時はimpresario(興行師)を名乗っていた。そう言えば、のちに彼が書いた自伝の題名は、「UNDER MY WINGS / My Life as an Impresario」(2002)であった。

 一行49名。9月26日羽田着。28日から稽古を開始した。初日は11月9日だというのに早過ぎるのでは?ジラードのプロダクションは、ニューヨークでオーディションこそ実施したものの、いわゆる寄せ集めに過ぎなかった。組合所属でない俳優が多かったので、ルール上、来日以前に現地での稽古が出来なかった、と私は聞いている。

 振付・演出は、ブロードウェイ・オリジナル・プロダクション(57)でA‐ラブ、映画(61)でアクションを演じたトニー・モデンテが相務めた。もちろんジェローム・ロビンスの指名による。

 この『ウエストサイド』公演が実現するに当たって、ひとりの日本人が重要な役割を果たした。ポール・ジラードと日生劇場の間を繋げた川添浩史(1913~70)である。

 川添さんは、戦後初の大型文化使節として欧米興行界を席捲した“アヅマカブキ”(54~55)のプロデューサーとして知られる。一時期、著名人たちのサロンの趣のあった老舗イタリア料理店キャンティの創業者でもある。

 先のジラードの自伝には、日生劇場のオーナーがやって来て、『ウエストサイド』を連れて来てもらえまいかと頼まれたとある。

 しかし、私がその当時浅利慶太(同劇場の青年重役、まだ20代)から聞いたところでは、川添さんが同劇場社長五島昇に持ち込んだ企画ということだった。

 この公演では舞台の出来以上に鮮明に覚えている出来事がある。

 劇場内のどこかで記者会見がおこなわれたときのこと、日本側からの質問が一段落したところで、アメリカ側から「ひとつ聞きたいことがある」と手が挙がった。私の心もとない記憶ではトニー・モデンテだった気がする。

 「日本の観客は拍手をあまりしないと聞いている。ほんとうか」

 突然、逆質問をぶつけられ、記者たちは黙して語らず、場内に嫌な冷たい空気が滞ることになった。

 その雰囲気を察するかのように、カンパニー側最前列にすわっていた川添さんが、マイクをとった。

 「日本人の感性はexpressiveよりimpressiveなんですよ。多少拍手が少なくたって、感動はじゅうぶん心に受け止めています。ご心配なく」

 瞬間、出演者たちから拍手が起こった。なるほど彼等はすぐに行動に表わすんだなあと得心しつつ、私は、国際プロデューサーらしい川添さんのひとことを胸に刻んだものだ。見事な助っ人ぶりだった。

                    (「シアターガイド」20148月号より転載)


文楽アメリカ公演(1963年)での川添浩史氏(いちばん右)と桐竹紋十郎(いちばん左)。「キャンティの30年」(私家版)より。


 川添氏と梶子夫人。野地秩嘉著「キャンティ物語」(幻冬舎)より。