1951年2月6日、帝劇コミックオペラ(のちに帝劇ミュージカルスと改称される)第1回作品『モルガンお雪』が幕を開けた。

 祇園の芸妓で、アメリカの大富豪ジョージ・デニソン・モルガンに見初められるお雪を演じたのは、宝塚歌劇団在籍のまま異例の外部出演を許された越路吹雪であった。

 初日を迎えてすぐに東京は大雪に見舞われる。吹雪がお雪に扮するとあって天が気を利かせたのか。戦後6年目とあって劇場に暖房がない。越路は悪性の風邪にやられ歌うことがままならなくなった。

 当時の帝劇社長でこの舞台の実質的なプロデューサーでもあった秦豊吉氏は、著書「劇場二十年」(朝日新聞社、1955)で次のように書き残している。

「終演後、私は越路の躰を毛布で包み、タキシイの中でしっかり抱きかかえ、目白の坂を上り、十二時近く、病院のベッドに寝かせ、医者の手当を頼んだ。ぐったりと疲れて冷えた越路を強く抱きしめて励ました。」 社長兼プロデューサーが、病気とはいえ主演女優を強く抱きしめたりしたら、平成の今日ではスキャンダルかもしれない。

 秦氏はこうも書いている。
「越路の食欲が進まないので、私はわが家で毎日海苔巻の弁当を作り、楽屋に持参した。私も一生懸命であった。越路も一生懸命であった。」

 このとき秦氏59歳、越路はあと何日かで27歳(2月18日が誕生日)になろうというところだった。越路はいざ知らず、秦氏のほうには、職業上のノリを越えた親愛の情があったと思えなくもない。

 幸いにも私は、この『モルガンお雪』の舞台を見ていて、そのなかの何景かをしっかりと記憶のなかにとどめている。とりわけモルガン(古川ロッパ)とお雪が新婚旅行先のパリでレヴュウ見物をする一景が、今も鮮やかに甦る。

 ふたりが、帝劇のバルコニー席をパリのレヴュウ劇場の特等席に見立てて陣どり、ステージ上で繰り広げられるショウに拍手していると思いきや、お雪の越路がショウの女王に早替わりし登場する場面である。和服から洋装へ、越路のいでたちはどちらも素敵の一語に尽きた。

 ここで越路が歌う「ビギン・ザ・ビギン」の、なんと軽やかであでやかだったこと!
この『モルガンお雪』を皮切りに秦氏は、『マダム貞奴』『浮かれ源氏』『美人ホテル』『天一と天勝』などを世に送り出す。

 時代もの現代ものを問わず、氏がこだわったのは日本ネタという一点である。この路線を貫き通せば必ずブロードウェイから買いが入るというのが氏の口癖だった。

 実際向こうで、『王様と私』『フラワー・ドラム・ソング』など東洋情緒豊かなヒット作が、陽の目を見たわけで、単なる夢想ではなかったと思われる。

(シアターガイド6月号より転載)


1951年(昭和26年)「モルガンお雪」のパンフレットです。




共演する古川ロッパと越路吹雪(同パンフレットより)。