ミュージカル界の先達(パイオニア)たち
第1回 「戦前より海外に飛び出す―宝塚歌劇団」
「シアターガイド」5月号から新連載を始めました。
6回の予定で、日本のミュージカルの礎(いしずえ)を築いた先人たちの、隠れた逸話をとり上げていきます。第1回は宝塚歌劇団の創設者、小林一三をめぐる話題です。
――――――――◇◇――――――――◇◇―――――――――◇◇―――――――――
戦前から宝塚歌劇団が海外公演をおこなってきたことは朧気ながら知っていたが、改めて、最初のヨーロッパ公演が1938年10月~39年3月、続くこれまた最初のアメリカ公演が39年4月~7月だったことがわかって、びっくり仰天している。
1938年、39年は昭和13年、14年である。37年の昭和12年からは日中戦争に突入し、当時の国際関係は緊張が高まっていたはずだ。欧米の多くの国々が日本に好意的だったとは、とても考え難い。そのなかでのヨーロッパ、アメリカ遠征なのだから。
これらすべて、宝塚歌劇団の創始者、小林一三の英断により遂行されたものと思われる。国際関係が不穏になればなるほど、芸能・文化使節の派遣は大きな意味があると考えたのだろう。あるいは日々、洋楽・洋舞にいそしんでいる生徒たちに本場の空気に触れさせてやりたいと願ったのかもしれない。小林一三がきわめて傑出した人物だったことが、この一点からだけでも知れようというものだ。
4月にリリースされるそれぞれ2枚組みのアルバム「宝塚卒業生〈伝説の歌声〉」(ビクター)、「同〈魅惑の歌声〉」(ユニバーサル)は、葦原邦子、深緑夏代、越路吹雪ら往年のスターたちの名唱を網羅したものだが、ビクター篇のほうに渡米公演に関連した曲が6曲入っている。
帰国後、スタジオ録音されたもので出演者クレジットは小夜福子と渡米使節団、曲目は「お江戸日本橋」「さくらさくら」「安来節」「宝塚音頭」など。
冒頭に生徒代表小夜福子の挨拶が入っている。巡演都市サンフランシスコ、ニューヨークなど9個所、公演数50数回に及んだという。その凛とした声、落ち着いた語り口は胸に響くものがある。
「日本の古い曲がオーケストラという洋服を着た姿だとお感じになるかもしれません」というくだりには思わずくすりと笑ってしまった。
一行60名、うち生徒40名。なかには戦後の宝塚の舞台でも活躍した春日野八千代、天城月江の名前も見掛けられる。
ショウの内容は大半が「棒しばり」「娘道成寺」など日本情緒豊かなものだったようだが、「日本シャンソン」という一景もある。もしかすると宝塚十八番のシャンソンも披露されたのだろうか。
一行には渋沢秀雄(実業家、田園調布の命名者)も監督の肩書きで同行し、8ミリ撮影機を廻していたらしい。
喜劇王古川緑波は厖大な「古川ロッパ昭和日記」全4巻(晶文社)を残しているが、戦後篇の昭和20年9月25日の項に渋沢邸でその映画を見たと書いている。
植田紳爾先生もどこかで見たことがあり、神戸港を出航する光景を覚えているとおっしゃっていた。
私も是非見てみたい。
(シアターガイド2014年5月号より転載)
ありし日の小林一三氏。
「シアターガイド」5月号から新連載を始めました。
6回の予定で、日本のミュージカルの礎(いしずえ)を築いた先人たちの、隠れた逸話をとり上げていきます。第1回は宝塚歌劇団の創設者、小林一三をめぐる話題です。
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戦前から宝塚歌劇団が海外公演をおこなってきたことは朧気ながら知っていたが、改めて、最初のヨーロッパ公演が1938年10月~39年3月、続くこれまた最初のアメリカ公演が39年4月~7月だったことがわかって、びっくり仰天している。
1938年、39年は昭和13年、14年である。37年の昭和12年からは日中戦争に突入し、当時の国際関係は緊張が高まっていたはずだ。欧米の多くの国々が日本に好意的だったとは、とても考え難い。そのなかでのヨーロッパ、アメリカ遠征なのだから。
これらすべて、宝塚歌劇団の創始者、小林一三の英断により遂行されたものと思われる。国際関係が不穏になればなるほど、芸能・文化使節の派遣は大きな意味があると考えたのだろう。あるいは日々、洋楽・洋舞にいそしんでいる生徒たちに本場の空気に触れさせてやりたいと願ったのかもしれない。小林一三がきわめて傑出した人物だったことが、この一点からだけでも知れようというものだ。
4月にリリースされるそれぞれ2枚組みのアルバム「宝塚卒業生〈伝説の歌声〉」(ビクター)、「同〈魅惑の歌声〉」(ユニバーサル)は、葦原邦子、深緑夏代、越路吹雪ら往年のスターたちの名唱を網羅したものだが、ビクター篇のほうに渡米公演に関連した曲が6曲入っている。
帰国後、スタジオ録音されたもので出演者クレジットは小夜福子と渡米使節団、曲目は「お江戸日本橋」「さくらさくら」「安来節」「宝塚音頭」など。
冒頭に生徒代表小夜福子の挨拶が入っている。巡演都市サンフランシスコ、ニューヨークなど9個所、公演数50数回に及んだという。その凛とした声、落ち着いた語り口は胸に響くものがある。
「日本の古い曲がオーケストラという洋服を着た姿だとお感じになるかもしれません」というくだりには思わずくすりと笑ってしまった。
一行60名、うち生徒40名。なかには戦後の宝塚の舞台でも活躍した春日野八千代、天城月江の名前も見掛けられる。
ショウの内容は大半が「棒しばり」「娘道成寺」など日本情緒豊かなものだったようだが、「日本シャンソン」という一景もある。もしかすると宝塚十八番のシャンソンも披露されたのだろうか。
一行には渋沢秀雄(実業家、田園調布の命名者)も監督の肩書きで同行し、8ミリ撮影機を廻していたらしい。
喜劇王古川緑波は厖大な「古川ロッパ昭和日記」全4巻(晶文社)を残しているが、戦後篇の昭和20年9月25日の項に渋沢邸でその映画を見たと書いている。
植田紳爾先生もどこかで見たことがあり、神戸港を出航する光景を覚えているとおっしゃっていた。
私も是非見てみたい。
(シアターガイド2014年5月号より転載)
ありし日の小林一三氏。