第1回ハヤカワ「悲劇喜劇賞」授賞式でのこと(3月28日、明治記念館)、「MIWA」の成果で受賞した野田秀樹さんが、壇上からの挨拶の折、亡くなったばかりの朝倉摂さんを偲んで、「こういう会だと、派手ないでたちの朝倉さんが現われそうです」と言っていた。

 確かにいくつになっても、摂さんは、演劇界パーティーの華のような存在であり続けた人だった。

 その昔、1990年だったか、彼女とブロードウェイの巨人ハロルド・プリンス(製作では「ウエスト・サイド物語」「屋根の上のヴァイオリン弾き」他、演出では「スウィーニー・トッド」「オペラ座の怪人」他)を引き合わせたことがある。ニューヨークでも東京でも何度か3人で食事をした。プリンスがパルコ劇場で「藪原検校」を見て、彼女の舞台美術に惚れ込んでしまったからだ。

 あの舞台の摂さんの舞台美術は縄を多用したユニークなもので、プリンスが一目惚れした気持ちもよくわかる。彼はその頃準備中の「蜘蛛女のキス」(のちにトニー賞ベスト・ミュージカル)で一緒に仕事をしたかったようだ。

 この話は、プリンス側が打ち合わせの度毎の朝倉さんの渡航費を負担し切れず、残念ながら沙汰やみとなった。

 朝倉さんとは時折食事をともにした。麻布十番のイタリア料理店クチーナ・ヒラタをひいきにしていた。80代半ばになっても健啖家でフランス料理をものともせず、青山1丁目の名店ナリサワに招いてくれたこともある。

 テーブルの話題はもちろん内外の舞台の評判だった。出来の悪いものは悪いと厳しく批判した。その毅然たる態度が実にすがすがしく気持ちよかった。

 私が摂さんの知己を得たのは1965年だったと記憶する。紹介者は週刊朝日副編集長だった栗田純彦さん。当時はまだ深く舞台美術には係わっていなかった。小説の挿し絵が結構忙しいということだった。

 実は私の処女出版「音楽界実力派」(音楽之友社、1966年)は朝倉摂さんの装丁である。内容は音楽家の人物論なのだが、それにこだわらず、大胆な抽象画風デザインにしたところがいかにも彼女らしい。

 ところで朝倉さん、葬儀場でいただいた挨拶状の文面とイラストは、生前、用意されていたものなのでしょうか。本人の名前があったのでびっくりしました。



生前、死後の挨拶状の準備までしていたのだろうか?



私の最初の著作は朝倉さんの装丁でした。