多分、身内を別にすれば、関容子さん(エッセイスト)ほど十八代目中村勘三郎を知り尽くした人はいないのではないか。四歳直前の初舞台「桃太郎」から最後の平成中村座ロングラン公演まで、歌舞伎役者としての成長ぶりを見続けて来ただけでなく、折に触れて芸についての助言もして来たようだ。

 関さんの新著「勘三郎伝説」(文芸春秋)は、この役者の大らかな人となり、愛嬌たっぷりの芸達者ぶりを語って尽きることがない。どの頁にも、人間味たっぷりで、しかも芸道の厳しさを物語るエピソードがあふれている。

 まだ14歳で勘九郎時代だったころ、先代と「連獅子」を踊ることになった。先代の特訓に次ぐ特訓が続いたが、思うように会得できない。二階でひとりで泣いているらしかったので、姉の久里子が様子を見に行ったら、おばあちゃん(六代目尾上菊五郎未亡人、母方の祖母)のところへ行くと荷物を作っていた。なだめたものの言うことをきかない。しばらくほって置き、久里子がもういちど様子を見に行くと、こんどは六代目の写真に向かって「どうか上手に踊れるようにして下さい」と涙ながらに拝んでいたという。

 いたいけな幼いころの勘九郎の姿が目に浮かぶ。と同時に、改めて勘三郎が、かの六代目の血流に繋がる役者だったことに思いを致たさずにいられない。

 ところで、関さんは、作家の丸谷才一さんを紹介するかと思えばオペラを見ることを勧めるなど、勘三郎とはひとかたならぬ交遊があった一方、こと芸に対してはあくまで厳しい見方を貫き通した。だからこそ本人から信用されもしたのだろう。

 平成24年4月、平成中村座で「法界坊」が演じられたとき、関さんはなかなか神輿を上げなかった。

 「私が『法界坊』に行かなかった理由というのは、演出がだんだんエスカレートしてきているのに抵抗があったからだった。平成十九年七月ニューヨーク公演に出かけ、リンカーンセンターの着飾ったアメリカ女性客に混じって晴れ晴れと観ていたら、序幕、山崎勘十郎がお組に挑みかかるのに扇子を袴の中に入れる際どい演技になり、レディたちがいっせい身を退くのが見えて恥ずかしい思いをした。」
 とその訳を明かしている。
 
 番頭が本人の伝言を持って来たこともあり、関さんはようやく足を劇場に向けるのだが、このときの公演は、舞台後方のホリゾントが開け放たれると、満開の桜と隅田川が目に飛び込んで来るという趣向だったらしい。

 関さんに生前の勘三郎は、太地喜和子との初恋物語をすべて吐露している。ふたりは未年同士、喜和子のほうがひと回り上だった。
 
 ふたりの出逢いは、中村屋が太地主演の文学座アトリエ公演『櫻ふぶき日本の心中』(作:宮本研)だった。初めは人に誘われて、すぐにふたたび、ひとりで見に出掛けた。二回目のときは最前列だった。喜和子の幕切れの科目「花が散りまた咲くように、女は桜、日本です・・・・・」のとき、目と目がぱっちり合った。
 
 たちまち、ふたりの恋は火がついたように燃え上がる。
 お忍びでエーゲ海クルーズにまで出掛けてしまう。果たしてこの恋の顛末は?それは関さんの「勘三郎伝説」でじっくりお読みいただきたく。


この本、勘三郎の魅力をまるごと捉ええています。