「芝・増上寺の前に日活スケートセンターというのがあったの、覚えてる?あそこで何か催し、今でいうところのイベントがあって、歌わなくてはならなくなった。昭和二十七、八年ころのことかなあ。一夜漬けで教えてもらったのが、あとでマリリン・モンロー主演の映画『ナイアガラ』で使われて有名になった『キス』って歌・・・。アメリカの古いラブソングです」

「本番の日、出番前に楽屋で一生懸命おさらいしていると、チンピラ風のやくざが側で肩をいからせてぶつぶついってやがる。どうもそれが気になってけいこに身が入らない。そのうち、とうとう我慢できなくなって『うるせえ、あっち行け!』って怒鳴っちまった。そうしたら、びっくりして一目散に逃げてしまいやがった」

 「あの一喝がよかったのかなあ。本番、とても気持ちよく歌えてね。これなら、歌の仕事が続々と舞い込むんじゃないかなと、ひそかに期するとこがあったんだが、なぜかさっぱりだったねえ」

 永遠の二枚目、池部良は最近、小説や随筆の執筆に忙しい。連載五本の売れっ子である。この話も、本人が書いたら、もっと面白くなったかもしれない。
 (1990/11/1)

 (追記)
 池部良さんは、2010年10月8日、逝去、享年92。最後まで原稿に追われていた。