テレビ・ドラマの演出にかけては屈指のひとり鴨下信一氏(東京放送役員待遇・専門職局長)にも、失意の時期があった。十五年ほど前、網膜剥離にかかり大手術を受け、約一年間、テレビも見られず本も読めないという日々を送ったことがあるのだ。

 ベットの上でできるのは、ひらすら音を聴くことのみ。音楽はもちろん、落語、浪曲、講談となんでも聴いた。徳川夢声の朗読による「宮本武蔵」(吉川栄治原作)にも聴きほれた。

 それまで大のベートーベン嫌いだった鴨下氏が、この楽聖の神髄に触れたと感じたのは、この病床でのことだったという。
 鴨下氏がベートーベンが好きになれなかったのは、交響曲第五番「運命」に見られる大仰、深刻、熱っぽさなどのせいだった。つまり人間的な繊細さ、優しさなどが感じられなかったからだ。

 「その印象が、ラジオから流れてくるチェロ・ソナタの三番を聴いて、がらっと変わった。怒ってみたり笑ってみたり猫なで声になってみたり、あらゆる芸当をするじゃありませんか」

 楽聖の冗舌さは耳の疾患のせい―これは鴨下氏の立てた逆説的新論である。
 (1990/10/4)

 (追記)
 鴨下信一氏はTBS退社後も演出家、文筆家として活躍を続けている。最近の著書に
「昭和芸能史傑物列伝」(文春新書)がある。