フィギュア・スケートを始めたのがわずか三歳のとき。中学校一年生まで無我夢中で没頭した。

 もともと血筋はよく、姉の治子さんがグルノーブル・オリンピックに出場している。本人もオリンピック選手候補までいった。

 そんなわけで彼女の子供のころは、日々、スケート・リンクでの明け暮れである。当時、夏でも滑ることのできた唯一のリンク、大阪・梅田スケート・リンクがホームグラウンドだった。

 夏休み、東京から練習にきていた早稲田のホッケー・チームのなかに堤義明氏(現・西武鉄道会長)がいて、宿題を助けてもらったことも。

 「リンクにはドリス・デイやナット・キング・コールの歌がいつも流れていて。キング・コールの『トゥ・ヤング』、今も胸に染みついています」

 恋をするには若過ぎる…というこのラヴ・バラードがわかるには、それこそあまりにも若過ぎたはずだが、にもかかわらず、彼女の心になにがしかの情感を植え付けずにおかなかったのだろう。

 「あのころの歌、余韻があるんです。今は歌も恋もなにもかも余韻がなくなってしまって」
  演技派女優らしい余韻あるひとことである。
 (1990/8/16)