雪村いづみとアメリカの深い縁 | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

雪村いづみとアメリカの深い縁

(前書き)
 雪村いづみが新アルバムを発表した。元祖三人娘のひとりが、美空ひばり、江利チエミ、そして自身の往年のヒット曲に挑戦した新録音だ。ひばりの「リンゴ追分」「東京キッド」、チエミの「テネシーワルツ」「霧のロンドンブリッジ」をいづみがどう歌っているかは、まずは聴いてのお楽しみ。題して『想い出のワルツ~Tribute 三人娘/わが心のひばり、チエミ』(ラッツパックレコード)です。
 それにしても76歳の歌手が真っさらのアルバムを作るなんてそうざらにあるものじゃない。そこで私もお祝いの小文をライナーノーツに寄稿させてもらった。その「雪村いづみ讃」を当ブログにもUPさせていただきます。

(本文)           
 雪村いづみの人生を振り返ってみると、常にアメリカがつきまとっている。アメリカ抜きではなにも語れない。

 雪村は昭和12年(1937年)3月20日生まれである。4年後の昭和16年12月8日には日本がアメリカと戦争を始めるという時代だったのに、父親はセミプロ・バンドを組むくらいハワイアンやジャズに熱中していた。家にはその手のレコードが一杯あったそうだから、幼いとは言え彼女が耳にしていないはずがない。
 敗戦の翌年、その最愛の父が突然亡くなり、いづみ自身もメイドとして働こうと心に決めた。売り込みにいった先はアメリカの通信社APの東京支局長の家だという。幼過ぎて受け入れてもらえなかったけれど。

 次に彼女が目指したのは、ジャズ・バンドで歌わせてもらうことである。持ち歌は「ビコーズ・オブ・ユー」たった1曲しかなかったのだから、いい度胸をしている。

 しかし、そこから少しずつ運が開けて行く。敗戦後の日本には至るところに米軍専用のクラブがあり、いたいけな十代の少女歌手はたちまち引っ張り凧となる。そこは日本のなかのアメリカだから、彼女のジャズ感覚に磨きのかからないわけがなかった。

 彼女のレコード・デビューは、昭和28年4月、16歳のときである。曲はアメリカのヒット・チャートを賑わせていた「想い出のワルツ」だった。それ以降も次々に「星を見つめないで」「青いカナリア」「オー・マイ・パパ」など海の向こうのヒット曲を英語、日本語ちゃんぽんで吹き込み、たちまち人気歌手の座を獲得することになる。まさにアメリカ様々だ。

 いづみがあこがれのアメリカの地を踏むのは昭和34
年のことで、NBCテレビに出演するためだった。翌35年、ジャポネスク趣味を売りものにしたライヴ・ショウ『ホリデイ・イン・ジャパン』にトップ歌手として参加し、丸1年間、アメリカ全土を巡業する。この間、アメリカのエンターテインメントの神髄に触れる機会も多く、さまざまな刺激を受けたことは想像に難くない。

 私生活では、その間アメリカ青年ジャック・セラーと恋に落ち、36年、結婚したが、わずか5年で破綻を迎えている。

 いづみには、昭和41年から何年間か、ロサンゼルス、ラスヴェガスに居を構え、アメリカ・ショウ・ビジネスへの果敢な挑戦を試みた時期がある。テレビからナイトクラブまでさまざまなオーディションを受け、いくつかの仕事も得たようだが、現地でプロ歌手として根を下ろすところまでは行かなかった。
 その当時、たまたまロサンゼルスを訪れた私は、彼女がテレビ番組のオーディションを受けている現場を目の当たりにした思い出がある。日本にいれば大スターの彼女があそこまでしなくてもと思ったものだ。

 しかし、今にして思えば彼女は、自分自身のキャリアの原点たるアメリカをしかと確かめるために、あそこまでからだを張ってみたかったのかもしれない。

 今回の新アルバムを聴いていると、いづみが長年かかってアメリカから学んだプロフェッショナリズムが、そこかしこに躍動しているように感じられる。すなわちこの1枚は彼女の歌手人生のすべてを賭けた集大成である。

 かつての三人娘のうち、美空ひばり、江利チエミはすでにこの世になく、生き残りは雪村いづみのみとなった。戦後の申し子の彼女たちは、チエミ、いづみはもちろん、ひばりでさえジャズを歌い、アメリカの影響をたっぷり受けている。

 しかし、アメリカとの関係の深さはいづみが一番だろう。その何よりの証拠がこの新録音ではないだろうか。

 このアルバムについてもっとくわしく知りたい方は、下記URLどうぞ。
 http://www.ratspack.com/catalog/pop/RPES-4857.php

伴奏は、前田憲男とウインドブレーカーズ。いづみとの呼吸がぴったりです。
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