ヴォードヴィリエンヌ宮城まり子 | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

ヴォードヴィリエンヌ宮城まり子

(前書き)
 10月16日、DVD+CD『宮城まり子とねむの木学園の子どもたち/ママに捧げる歌』(ビクターエンタテインメント)がリリースされました。まり子と学園の子どもたちとの心暖まるコンサートの模様がヴィヴィッドに伝わって来ます。(13年3月8日、当ブログ参照)。
 このパッケージに『宮城まり子小論』を寄せましたので、当ブログでも紹介させていただきます。

(本文)               
 宮城まり子は、歌手というジャンルに閉じ込めてしまうには持てる才能があまりにも多彩過ぎる。それでは女優?歌も歌う女優か?変幻自在な彼女にはこの肩書も窮屈にちがいない。

 音楽、芝居、映画などジャンルの枠を軽々と乗り越えながら、その憎めない個性は更に輝きを増す。気がつくと私たちは、巧まざる技量と持ち味のとりことなり、笑い転げたり、ほろり涙したりしている。

 強いて名づけるとしたらヴォードヴィリアンか。このフランス語の単語に女性形はあるかどうかわからないが、私は密かにヴォードヴィリエンヌと呼んでいる。コメディアンの女性形がコメディエンヌであるように。

 ヴォードヴィリエンヌとはなにか。西洋寄席の女芸人である。歌手、ひとり漫才、女優なんだってこなさなくてはならない。そう、時にはピエロだって。

 芸風からすると、どこかおかしくて、どこか哀しくて、融通無碍でなくてはならない。

 たとえば彼女の「ガード下の靴みがき」を聴いたとしよう。上野駅でも有楽町駅でも見掛けられた戦災孤児の姿が、時空を超えて目の前に浮かび上がって来るではないか。そこにいるのはヴォードヴィルのなかの寸劇を演じるまり子であり、彼女の扮する靴みがきの少年である。その少年のかもしだす哀歓がたまらない。

 しかし、だからと言って彼女の女優としての才能は、寸劇にとどまるものではない。長尺物ではパリ発のブロードウェイ・ミュージカル『イルマ・ラ・ドゥース』で心優しき娼婦イルマを演じ、喝采を浴びたこともある。

 まり子は、クラシックの林光から歌謡曲の利根一郎、コミック・ソングの三木鶏郎まで幅広い作曲家たちと仕事をして来た。けれど彼女がもっとも肌が合うと感じていたのは、実弟の宮城秀雄ではなかろうか。秀雄が早逝していなければ、ミュージカルの分野で思いも及ばない展開があったのではないか。

 というような次第で、私のような古くからの知り合いにとっては、あくまでも宮城まり子は芸能の世界の人である。けれど、昨今、彼女を知った人たちには、あるいは社会福祉家という認識のほうが強いかもしれない。

 私の見るところ、まり子がヴォードヴィリエンヌから社会福祉家へと突き進んだその道は、一本の揺るぎない精神によって裏打ちされている。それは自らを捨てて人に尽くすという精神である。

 芸人としてのまり子は観客を笑わせ泣かせることに精一杯努力した。今、彼女はハンディキャップを持つ人たちに生き甲斐をあたえようと身も心も捧げ尽くしている。
 歌手、女優のルーツあってこその社会福祉家なのだ。

 ねむの木学園の生徒たちとのコンサートでも、宮城まり子は、指揮、歌、司会とひとり何役もの活躍ぶりを見せた。車椅子での登場だったのに元気のいいこと。あれこそヴォードヴィリエンヌ精神の発露、しかもその真骨頂という気がしたものだった。

 よりくわしい情報は下記URLからどうぞ。
 http://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A000450.html
             
子どもたちの合唱を指揮する車椅子の宮城まり子。
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