映画『風立ちぬ』には「物語の階段」がない? | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

映画『風立ちぬ』には「物語の階段」がない?

 作家の沢木耕太郎さんが、月1回、朝日新聞夕刊に「銀の街から」という映画エッセーを連載している。9月27日の紙面では宮崎駿監督『風立ちぬ』をとり上げていた。

 一読、独自の視点からの鮮やかな分析に思わず「おっしゃる通りです」とうなずいてしまった。そして、いつもながらの気張らない文章がなんとも好もしい。

 沢木さんは、この宮崎作品を買っているわけではない。明らかに否定的である。「やはり、これは宮崎駿の作品ではない」とまできっぱり言い切っている。しかし、私のように「面白くない」「主人公堀越二郎に同化出来なかった」(8月2日当ブログ)というような身も蓋もない言い方は、さすがしていない。

 沢木さんは、この映画はふたつの要素から成り立っているとしている。ひとつは、飛行機少年が「『零戦』という名戦闘機を生み出すという要素。」
 もうひとつは、肺病の菜穂子が「恋を貫き通し、二郎との短い結婚生活を送ろうとする、という要素。」である。

 「だが、この二つの要素は、映画の中で、有機的な融合がなされていない。問題は主人公が昇るべき『物語の階段』が存在しないというところにあったと思われる。」

 かつての宮崎作品の主人公たちは、「父の無念を晴らしたいと願う少年でも、父母を魔界から取り戻そうとする少女でも」「自分自身の『物語の階段』を除々に昇っていった。」
 
 ところが、堀越二郎の前にはその「物語の階段」が存在していない。「この映画には、あたかも『バリアフリー』化されてしまった室内のように『段差』が存在しないのだ。」

 ウィットたっぷりの比喩だが、随分と厳しい指摘である。

 主人公の少年(あるいは少女)が世間や他人と戦うことにより自分と自分の人生に目覚めて行く―これがすべての自己形成物語の本道のはずなのに、宮崎監督は堀越二郎の前にバリア、すなわち戦うべき敵を置き忘れてしまった?いや堀越の前に震災、戦争、新機種設計、恋人の結核などいくつもの難関がなかったわけではないのだが、物語のなかにかっちり組み組まれてないため、「二郎は、外貌が変化するだけで本質的な『変化』を遂げることがない。」

 かくて沢木さんはこう結論づける。

 「これは宮崎駿にもう一本撮らせるために存在する映画だと思った。なぜなら、これは新しいものを生み出した作品ではなく、かつてあったものが失われた映画だったからだ。」

 もちろん、宮崎監督引退を知った上での沢木さんの注文である。

沢木耕太郎さんの映画エッセー(9月27日,朝日新聞夕刊)です。
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