『笑っていいとも!』のタモリは“絶望大王”? | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

『笑っていいとも!』のタモリは“絶望大王”?

 『笑っていいとも!』が始まったのは1982年10月である。タモリはこのお昼の帯番組の司会をなんと30年続けて来たことになる。毎回生放送の司会をこれだけ長く続けて、なぜ気が狂わないでいられるのか?

 『さらば雑司ケ谷』の人気作家樋口毅宏さんが、この命題を掲げて『タモリ論』(新潮新書)を書き下ろした。著者の下だした結論は、「自分にも他人にも何ひとつ期待していないから」、それが出来ると。

 いったい樋口さんがそのように結論づけた根拠は?タモリが番組で小沢健二の歌詞をとり上げ、「あれ凄いよね。“左へカーブを曲がると、光る海が見えてくる。僕は思う、この瞬間は続くと、いつまでも”って。俺、人生をあそこまで肯定できないもん」と発言したことを挙げる。

 人生を肯定出来ないというのは人生に絶望していることに等しいとして、タモリに“絶望大王”と呼び名までつけている。

 樋口さんの編集者時代の先輩で『タモリ倶楽部』に出演したことのある人がいる。その人の、
 「ああ、あの人はな、可哀想な人だぞ。恐ろしく孤独な人だ、タモリという人は」
 という発言も引き合いに出される。しかし、それ以上、タモリの内面への踏み込みはなにもない。

 ほんものの人気スターは、常に自己を客観視しているのではないか。第三者に対しても冷静のはずだ。どうしても楽観主義者ではなくなるだろう。そうでなくてはスターの地位を保てまい。つまり多かれ少なかれ“絶望大王”なのだ。

 タモリ自身、自分の声が一種の“カリスマ性”“壮厳さ”を感じさせる整数次倍音であるということを意識しているらしい。『徹子の部屋』で、
 「どこか突き放して、遠いところから俯瞰で見ているポジションにいる」
 と語ったという。

 興味深い発言である。しかし著者は、
 「やっぱり、ご自身でもわかっているんですね。」
 のひとことで片づけてしまう。

 ここでも整数次倍音とはなにか、その声の持ち主はどうして「俯瞰で見ているポジション」に位置できるのか、もう少し突っ込んで解きほぐして欲しかった。

 併せてビートたけし、明石家さんまも論じられる。たけしは「『いいとも!』に背を向けていることによって自分の生きるべき道を突き進んでいったのです。」
 ちなみにたけしが選んだ別の道とは、「映画監督や、作家や、大学教授といった別のジャンル」だという。

 たけしは自分の人生哲学があって独自の道を選んだのではないのかな。

 明石家さんまについては彼こそ「真の『絶望大王』」だといっている。それならさんまとタモリの“大王”としての差はなにによって生じたのか。次々にさんまを襲った事件を並べ立てるだけで、彼の精神をどう切り裂いたかは語られない。

 材料収集、論理構築、分析力、説得力すべてがゆるくぬるい。もっとも樋口さんのタモリと『いいとも!』への思い入れはひしひしと伝わって来る。これは論を装ったファンレターなのかもしれない。
 
 (なお倍音についてくわしく知りたい方は、中村明著『倍音/音・ことば・身体の文化誌』[春秋社]を参考にして下さい。)

この「タモリ論」、ほんとうに凄いか?
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