見ている間中ほとんどずっと、面白くないなあと思い続けていた。
零戦の完成はいつ、それまで重篤の妻の命は持つのか、このふたつの事柄が競い合うラストだけ、少しばかりスリリングだったけれど。

 宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』に私が乗れなかったのは、主人公堀越二郎に同化出来なかったからだ。同化出来なかったのは、この人物像に無理があるからではないか。

 零戦の設計者堀越二郎、『風立ちぬ』の小説家堀辰雄という実在の人物ふたりに素材を仰ぎつつ、宮崎はもうひとりの堀越ニ郎を創造しようと試みた。

 航空機設計師というプロフェッショナルな部分は堀越に、菜穂子を恋するプライベートな部分は堀に負っているのだが、その融合がうまくいってないのだ。

 それぞれ重い人生を背負って生きた別々の人物をいっしょくたにするなんて、あまりにも無謀過ぎる。

 昭和と深い係わり合いのある有名人物ふたりの名前と人生を借りて来たと言っても、大筋は零戦の堀越の生涯である。“化学反応”が起こり新たな堀越像が誕生するわけがない。

 いくつか不満を挙げる。

 第一に少年期の飛行機にあこがれる夢をもっとしっかり描いて欲しかった。尊師ジャンニ・カプローニ(イタリアの設計家)との架空の対話だけでは真実性が迫まって来ない。

 機材の乏しいなか、世界に先駆けて新機種を作り出すその生みの苦しみが、通りいっぺんにしか描写されていないことも、もの足りなく思った。

 堀越が無我夢中で零戦開発にとり込んでいたとき、その心の奥底はどのような喜び苦しみが渦巻いていたのか、それも知りたかった。

 少年時代からの夢が、今、着々と実現しつつあり、しあわせを噛みしめていたのか。ただ目の前の仕事に没頭するのみで頭も心も空洞だったのか。「お国のために」身を粉にして働くことで、なににも替えられぬ恍惚感に浸っていたのか。
 
先ほど私は、堀越の人物に同化出来なかったから退屈したと書いた。しかし、同化もヘチマもない。主人公のさまざまな感情、想念がないがしろにされ、克明に描かれていないのだから、同化も共感も、いや反発さえもなかったことになる。

 心に残った場面がなかったわけではない。列車の乗降口で二郎と菜穂子が初めて出会い、二郎の帽子が風に飛ばされる場面の微笑ましかったこと。そこから関東大震災へと繋げる脚本・演出の流れも実にうまい。凄惨な大震災の群集描写は、大胆かつ精緻を極める。

 題名は堀辰雄の小説『風立ちぬ』に拠っている。堀はポール・ヴァレリー(1871~1945)の有名な詩句を
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」
 と訳し、作中に引用した。

 なじみのない言い方の「生きめやも」は、直訳すれば「生きなければならない」という強い意志の、少し気取った表現である。

 その意志は、二郎、菜穂子、そして宮崎監督にも通底するものと思われる。しかし、それが私の胸に稲妻のように響いて来るということは遂になかった。


『風立ちぬ』のパンフレット。よく売れていました。
$安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba