作家で映画監督の体験を持つ長部日出雄さん渾身の力作『新編天才監督木下恵介』(論創社)には、 監督自身、撮影現場、故郷浜松についての興味深いエピソードが一杯詰め込まれている。(6月24日付け当ブログをお読み下さい)。

 そのひとつとして、どうして浜松に楽器製造の最大手ヤマハ(YAMAHA)が生まれたかが書かれている。これがすこぶる面白い。

 長部さんがこの本でくどいくらい指摘しているように、木下作品の本質は音楽映画である。その特質と浜松、そしてヤマハとはどこかでリンクしているのではないかと想像をふくらませたくなった。

 ヤマハの創業者、山葉寅楠(やまはとらくす)は、長崎の人で医療機器制作をなりわいとしていた。明治10年代後半、東京に進出したが成功せず、故郷に戻ることになる。その帰途、友人の医師福島豊策が住む浜松に立ち寄ったところ、福島のもとに浜松尋常高等小学校の故障したオルガンが持ち込まれていた。医者なら西洋文明にくわしくオルガンも直してくれると、学校の先生は思ったのか。

 福島ドクターが直せなかったオルガンを、医療器械屋の山葉は見事修復し、それが機縁で浜松を根域にオルガン製造を始める。これがヤマハの大もととなった山葉風琴製造所が誕生したいきさつだという。明治22年(1889年)のことだ。

 割合裕福な商家(漬物屋)に育った木下は、浜松工業(現浜松工業高校)に入ると、母親からオルガンを買い与えられた。山葉風琴の地元、浜松の人にとっては他の土地の人よりオルガンが身近なものだったのかもしれない。

 小学生のときから唱歌好きだった恵介は、音楽の才に恵まれていたのだろう、たちまち「ブラームスの子守唄」「ドリゴのセレナーデ」が弾けるようになる。のちに作曲家として大成する弟木下忠司も、同じオルガンで音楽に目覚めたものと思われる。

 木下監督の代表作のひとつ『二十四の瞳』は、いい意味でとてもセンチメンタルな映画である。その感傷性は、全篇に散りばめられた「仰げば尊し」「アニー・ローリー」「村の鍛冶屋」「故郷」「七つの子」など小学唱歌、童謡のもたらした効果にちがいない。

昔の小学生は教室で先生のオルガンに合わせてこれらの歌を覚えたものだった。
 浜松、ヤマハ、オルガン、小学唱歌、童謡、木下兄弟・・・・・そこにはなにか運命的なつながりがある。

私は長部さんの労作を読んでそう感じないではいられなかった。

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木下監督の傑作『二十四の瞳』は、ブルーレイで見られます。