今でもタクシーのラジオからこの曲が流れてきたりすると、「運転手さん、もう少し大きくして」などと叫んでしまうという。焼け跡闇市派の作者、野坂昭如氏のことだから、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」と戦後風景とは分かちがたく結びついている。
 
 兵庫県夙川(しゅくがわ)の名門ホテルを接収してつくられた米軍下士官クラブで、中学生の野坂少年はボーイ見習いのアルバイトをしていたが、その折、ふと耳にしたのが最初だった。

 「女性コーラスが歌っているレコードで、やけに明るい歌だなあという印象が強烈に残った。戦時中でも、ああいう歌を歌っていたアメリカには負けるはずだと思った。漠然としたアメリカへのあこがれも募らされたなあ」

 その頃、野坂少年はひどく貧しくラジオもなかった。同世代の少年たちは、駐留軍放送WVTRを通じてアメリカ音楽に親しんだのに、それができなかった。そのかわり米軍クラブという現場で数多くのアメリカの歌に接し得たわけだ。

 「あの頃、始終あった停電も米軍内はない。クリスマスの時など、街は真っ暗闇でもクラブのツリーの豆電球はきらきらと輝いていてね」と懐かしがる。(1990/6/21)
 
(追記)
 野坂氏は、2003年脳梗塞で倒れ療養中ながら、不自由な体にめげず、社会問題について積極的発言をおこなっている。