談四楼が綴った談志の晩年 | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

談四楼が綴った談志の晩年

 談志の率いた落語立川流一門は“本書く派”といわれるほど文筆に秀でた噺家が多い。家元からして筆が立った。世評高い随筆『赤めだか』(扶桑社)を書いた談春、「キネマ旬報」に「シネマ徒然草」を連載する映画通の志らくなど、いずれも玄人はだしだ。

 談志が死んだのは2011年11月2日のことだが、それから約1年後、12年12月15日に立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮社)が出版された。談四楼は、談志も一目置いた筆力の持ち主だけに、師匠のやりたい放題の無茶苦茶人生をユーモラスな文体で見事浮き彫りにしてみせる。

 とくに談志晩年の無軌道ぶりについては一読に値する。

 談春の『赤めだか』が刊行され、談四楼が書評でとり上げたとき、談志が激怒した。
 「てめえ談春の本を褒めやがったろ。でたらめばかり書きやがってよくもオレの名誉を滅茶苦茶にしてくれたな。お前は要らねぇ出てけクビだ破門だとっとと失せろ。」

 談四楼は一門の談春の本を褒めただけで談志の気に障ることを書いた覚えはまったくない。

 当時、談志は、食欲がまったくなく、楽屋でも則子夫人手製の弁当に手をつけなかった。睡眠薬ハルシオンを常用し、銀座のバーで愛用のスコッチ・ウイスキーJ&Bソーダ割りといっしょに飲み込んでいたそうだ。

 談四楼と談春はこんな会話も交わす。
 「本が売れてるアンタへの嫉妬?」
 「まさか。師匠は量を評価する人ですよ」
 「でもアンタの何かが癇に障ってるんだ。覚えないか」
 「ありません。だけどここんとこ見てると、どうも声だけの変調じゃない気もするんですねぇ」

 談四楼とある医師との次のようなやりとりも出て来る。
 「六十代半ば頃からかな、オレは老人初心者だ、老いにどう立ち向っていいかわからないって高座でも言うようんなって」
 「五十代で老いを意識する人は少なく、七十代はもう加速度的に老いを実感してたいてい諦めの境地になるんだけど、難かしいのは六十代なんですよね。老いを自覚するんですが、それまでクオリティの高いことをやってきた人ほど認めたがらない傾向があるよね。」

 著者談四楼は、
 「談志はまさしくそのタイプだと実感する。捩じ伏せようと老いと戦い、徐々に劣勢となる」
 と書いている。

 著者の目はどこまでも冷静冷徹なのだ。

 一転して2011年12月21日、ホテルニューオータニでおこなわれた“お別れの会”のくだりは、師匠への深い敬愛の念にあふれ、目頭が熱くなる。

 石原慎太郎、山藤章二ご両人の悼辞は一読する価値がある。

 談四楼は師匠の生きざま死にざまを赤裸々に書いた。しかし少しも談志を傷つけていない。あちこちに落語家らしいウィットが散りばめられているからだ。

 こういう弟子を持った立川談志はしあわせな男だと、つくづく思う。


ユーモアに包まれた文章に唸ります。
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