川端康成、大江健三郎らノーベル賞作家との交遊をちらつかせたり、インテリ気取り?のところが気になるが、絶世の美人女優であることは間違いない。彼女と同世代の私たち男性には常にあこがれのスターだった。

 昭和26年(1951年)、宝塚歌劇団在籍のまま出演した東宝映画『せきれいの曲』が公開されたとき、有楽町・日劇の表玄関上に掲げられた大きな看板を、私は今でもはっきり記憶してる。そこに描かれた彼女のなんと清楚で美しかったことか。

 愛称ネコちゃんのその有馬稲子が自伝を書いた。『のど元過ぎれば有馬稲子』(日本経済新聞社)である。60年以上に及ぶ女優人生が私生活面も含め素直に直に描き出されていて、興味尽きない。

 昭和7年(1932年)、池田市生まれ。幼くして父の姉夫婦の養女となり釜山に渡る。敗戦の年の11月、漁船に乗って命からがら日本に戻って来た。

 宝塚歌劇団を経て、映画、舞台で幅広く活躍して来たその女優歴のなかで、本人がもっとも大切な宝物としているのは、お芝居の『はなれ瞽女おりん』である。有馬は、24年間、684回の公演で盲目の旅芸人を演じ続けて来た。イギリス、ベルギー、スイスでの舞台も成功させている。

 私生活では、いちどは中村錦之助、もういちどはさる実業家と結婚している。その経緯も包み隠さず語られているが、自伝中いちばん衝撃的なところは、とある有名映画監督との恋愛と破局についての記述だろう。

 有馬が21歳のとき、17歳年長のその監督と出会い恋に落ちる。妻のある監督は、離婚して彼女との結婚を約束するが、7年たってもその夢は現実のものとはならなかった。

 いちばん滑稽なのは、盲腸で入院した彼女の病室で監督と錦之助があわや鉢合わせ?という場面である。有馬は監督の踏ん切りの悪さに業を煮やし、錦之助との結婚を決意するのだが、監督は未練がましく彼女に固執していた。

 手術が無事にすんだその夜、突然、監督が病室に姿を現わし、結婚を思いとどまるよう説得し始める。

 「私の頭はぼんやりとしていましたが、この人は自分のことしか考えない人だということだけは感じ取ることができました。
 そのとき廊下の向うから大きな声と数人の足音がやってくるのが聞こえました。
 『おーい、みつこ、どこだ』
 みつこは『盛子』で本名、錦之助さんの声です。とたんに監督はレインコートをひっかぶると暗い隅にサッとしゃがみこんで石のようになりました。
 (中略)『あのなあ、盲腸なんて病気じゃないよ、はしかみたいなもんだ、頑張れよ』それだけ言うと、錦之助さんは、仲間と元気いっぱいに出ていきました。
 (中略)その後監督がどうやって私の病室から出ていったのかは、まったく記憶がありません。」

 自伝のなかには監督との子を始末したと思わせるくだりもあるが、監督の名前はあえて伏せてある。しかし、その監督が誰かは世間では広く知られているところでもある。

 ちなみに本の表題『のど元過ぎれば有馬稲子』は、さまざまな人生体験からあまり多くを学ばない自らの資質への反省を込めてつけられたもののようだ。

 平成19年(2007年)以来、有馬稲子は横浜の中高年マンションの一室でひとり暮しをしている。バラ作りに精出し、時折、朗読の仕事をする。“銀幕スター”と謳われた往年とは打って変わった穏やかな日々らしい。


かなり本音で語られている自伝です。
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