大みそかの『紅白歌合戦』で「ヨイトマケの唄」を絶唱する美輪明宏の姿を見ていたら、彼をめぐる古い記憶がいくつか甦った。そのなかから印象深かった思い出をひとつ─。

 両性具有の妖しい雰囲気が受けたのか、美輪が一気に大バケするのは1957年である。6月、槍舞台の有楽町日劇に初出演、10月には初のシングル盤「メケ・メケ」がリリースされ、いっきょに世間の注目を浴びることになる。

 それ以前、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で限定された熱烈なファンに囲まれていたとはいえ、芸能ジャーナリズムが認知するところまでには至っていなかった。

 現在、有楽町マリオンのある場所に居すわっていた日劇、すなわち日本劇場は“陸の竜宮城”と謳われ、常時、映画と舞台二本立て興行をおこなってエンターテインメント界のシンボル的な存在だった。

 歌手でもコメディアンでもバンドでも日劇の“板”を踏めて初めてプロの新人扱いされ、看板のいちばんトップに名前を書かれ初めてスターとして認知されるというのが、当時の芸能界の暗黙のルールだった。

 当時、美輪は丸山明宏と名乗っていたが、その丸山が初出演したショウの題名は『ライラック・タイム全12景』(57年6月7~20日)。

 私が見たのは、多分初日の6月7日だったと思う。観劇後、誰か出演者を訪ねたのだろう(丸山ではなかった)、楽屋口に回ると舞台事務所窓口の前に立っている男性が、野太い声で守衛にこう告げているのが耳に入った。

 「丸山明宏さんに面会。三島といいます」

 三島由紀夫だった。手には小ぶりだが美しい花束があった。三島さんが丸山の熱心なファンだったことはつとに狭いシャンソン界では知られているところったが、私は思い掛けない場所でそれを裏書きするような光景を目撃してしまい、思わず得心が行ったものだった。

 1957年というと25年生まれの三島由紀夫、32歳。すでに『仮面の告白』『禁色』『金閣寺』を世に問い、日の出の勢いのような新進作家であった。

 そのせいか垣間見たその様子は自信に満ち、悪びれたところは少しもなかった。本人が有名人だけに、ひいきの芸能人を楽屋訪問するにしてもこっそりという風情がまったくなかったことに、私は驚いたくらいだった。

 ましてや三島さんと丸山の間は“禁断の恋”だったはずである。今日ほど同性愛が世間的に認知されていない時代だったこともあり、私は三島さんの堂々たる振る舞いにびっくりしたのだった。

 ちなみに、『ライラック・タイム』の他の出演者はトップがシャンソン歌手高英男、水谷良重(現水谷八重子)、堀威夫とスイング・ウエストなど。スイング・ウエストはウエスタン・バンドで、堀は現ホリプロ・ファウンダーの例の堀さんである。

 初出演の丸山明宏については、
「この広い舞台では小味が効かなくて損をしていたが、異様な雰囲気が身上で『メケ・メケ』がおもしろかった。」
という批評が残っている(橋本与志夫著『日劇レビュー史』)。