阿川弘之著『食味風々録』(新潮社、新潮文庫にも入っている)をふと思い立って再読した。私は、おいしいもの以上においしいもの随筆が大好きだが、阿川先生のこの本を超えるこの手の随筆に出会ったことがない。読みながら生唾を飲み込むのにどのくらい苦労したことか。

先生がこの随筆を雑誌「波」に連載され出したのは、1997年、御歳76歳のときである。

奥方とお嬢さん(佐和子さん)が台所で楽しそうに話しているので、「墨烏賊がどうしたって」と口を挟んだら、「烏賊の話なんかしてません。スニーカー、運動靴。」といわれてしまう。

「世の中」が「最中」、「汚職事件」が「お食事券」、「未だ九時前じゃない」が「又栗饅頭だ」、「三分の一の値段」が「サンドイッチの値段」、「エドワード・ケネディ」が「江戸川の鰻」に聞こえて来るという。

昨今の私も聴力の衰え激しく先生を笑えるどころではないが、このくだりはなんど読んでも爆笑してしまう。

全28章、米、チーズ、鰻、鯛、鮎、ビフテキとカツレツ、キャヴィアなどさまざまな食材、料理がとり上げられている。客船と食堂車の話題が楽しい。

どの章も再読、三読したくなるが、とくに私は「卵料理さまざま」という一章を好む。先生は、そのなかで「木須肉(ムースーロー・木樨肉とも書く)という大好物の料理を紹介しておられる。丁寧に作り方までも─。

「さて、具体的な作り方だが、支那鍋の中の油がほどほどに熱くなったところへ、といた卵を入れて、さッと掻きまぜ、手早く別の容器に取り出して置く。味つけは塩少々のみ。そのあとすぐ、もう一つの支那鍋で熱した油の中へ、大蒜、生姜、葱、豚肉、木耳の順に抛り込んで、酒と醤油と塩胡椒で味をととのへると、それ自体一つの惣菜として使へさうな豚肉の葱炒めが出来上がる。これに先の掻きまぜ卵の未だあつあつを合わせて再度炒め上げたのが、長年の間に変化した当家流木樨肉、難しいのは二度の油炒めで卵のきれいな色を薄黒くよごして了はないこと。じくじくの部分を少しでも多く残して置くことの二つであろう」

先生は、戦前、中野駅南口にあった庶民的な中華料理店「萬華楼」でこの一品に出会われたという。私も是非試作、試食をしてみたいと思っているが、今のところ活字の上で舌なめずりするにとどまっている。

ついでながら、私の手元にある数種の辞書には本の表題にある「風々」という語は見当たらない。しかし、風には、姿、形、やり方、様子などの意味があるから、『食味風々録』の意味するところはじゅうぶんに察しがつく。

阿川先生は、この風々なる語にぶうぶうとルビをふっておいでになる。だとすると風々録には「あれこれ、ぶうぶう、ぶつぶつ言う」という意味も含まれているのかもしれない。


おいしいエッセイ「食味風々録」です。
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