森光子特別対談 『放浪記』はわたしの“金鵄勲章”です(2) | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

森光子特別対談 『放浪記』はわたしの“金鵄勲章”です(2)

(前回より続く)

漫才の話術に鍛えられる

森:そして、すぐ東宝専属の話をいただいて、その当時大阪のテレビ局に専属でいたのですが、申し訳ないけれど、ってことで・・・・。

安倍:朝日放送ですよね。

森:はいそうです。毎日放送でも自分の番組をもっていましたのでね、「びっくり捕物帳」ってやっぱりダイ・ラケさんで。大阪ではとても、視聴率もよくて、むこうも困ったなとおっしゃったのですけれど、森みっちゃんのためだからしょうがないねっていう結論になって。いろいろみなさんにお訊ねしましてね、こういうお話がきているのですがどうしたらいいでしょうかって。お一人だけ反対なさった方がいらっしゃって。

安倍:どなたですか。

森:ミヤコ蝶々さん。

安倍:ほお!

森:あの方はね、そりゃあかんわ。大阪で、まあまあ名前も知られてきたところでしたでしょ。それで行ったら全部あれやで、一から出直しやで、ギャラも安いで、っておっしゃいました。本当のことを言ってくださいました。

安倍:実際、東京に出てきたら本当に出演料安かったんですね。

森:安かったです。いいことばっかり考えていましたからね、ちょっと冷や水を浴びたような気がしましたけれど、でもそれよりも演劇界の四天王のお一人ですものね。

安倍:今の人知らないだろうから僕が念のために名前を挙げると、北条秀司、中野実、川口松太郎、菊田一夫。あの当時で、あの人たちはね、商業劇場に一本書くと、作・演出料で一本百万円!

森:そうですか!あの当時の百万ですからね。みなさん毎月書いていらっしゃいましたねえ。

安倍:当時僕が飲んでいたサントリー・オールドの水割りが一杯250円でした。

森:ほんとうに高―いところにいらっしゃる方たちで。

安倍:ダイマル・ラケットとか、ミヤコ蝶々・南都雄二とか、森さんの場合、上京するまで関西漫才に囲まれてたようなものでしたね。

森:囲まれていました。今も、テレビ界はもうほとんどお笑いの方達で埋めつくされてますよねえ、その当時もそうでしたですねえ、特に大阪ですから。

安倍:今のテレビの漫才やお笑いとはちょっと違う、いや大いに違いましたよね。ずっと大人の芸だったと思います。

森:大阪っていうところは昔からよく大阪人が二人寄ると漫才になるって言うくらい、人そのもの、一般の方が面白いのですよね。会話がすごく面白くって、ですから少々のことでは笑っていただけないのです。厳しいですよ、笑いに対して。ダイ・ラケさんは、あの当時とすれば、ゆっくり、のろい、のっぺりしたような笑いじゃなくてスピードがありましたね。

安倍:あの当時の大阪漫才には秋田実さんというすぐれたリーダーがいた。数多くの台本を書かれた方です。秋田実さんのもとから、すばらしい芸人がたくさん育っていったんですね。

森:あの方が始められた「漫才学校」という番組がありました、ラジオですけれど。まだテレビがない頃で、それにも出していただいたりね。むこうではやっぱり、主役は漫才の方でしたからねテレビもラジオも。私、漫才をやっていたって何かに書いてあったらしいのですが、漫才はやっていません。ただ漫才の方に囲まれて出てました。だから話術はずっとそばにいてね、ああこういうリズムがあるのかとかね。「もういっぺん言ってみい、なんやてえ?」とかね、「大きな声では言われんが、小さな声では聞こえんわ」とか、返す言葉がおもしろいのですよ。本当にすばらしかったです。

安倍:そういう短い言葉がピュッピュ飛び交うなかで鍛えられたんでしょうね。

森:鍛えられましたね。だって一緒に出ていまして、台本にあった台詞なのに言えなかったのです。とうとう何も言えないで引っ込んだことが何度もあります。あんまりスピードが速いので。ああだめだな、こんなことではと思いましたねえ。

安倍:そういうときはどうなさるんですか、舞台で立ち往生で楽屋へ戻ってこられて。

森:恥ずかしかったです。ごめんなさいって謝りました。だけど自分が悪いのですよね。どこか隙間があったはずなのに、そこへ口が挟めなかった。もう本当に語尾を食うようにしないとだめだと思って。

安倍:そりゃ頭の回転が鍛えられますね。

森:かといって、ミヤコ蝶々さんはゆっくりと「なんやて?」「何が?何がね?」ってもう一回ギャグを聞きなおしてそこで落とすという感じ。だからそういうときには語尾を食ったりすると怒られますからね。それはそれで対応しなきゃならないし、だから話術というものの難しさというのはむこうで鍛えられました。

安倍:森さんのエンタテインメント生活を全部うかがったら、軽く一冊の本になってしまう。短い時間ではとても無理ですが、駆け足でお話をうかがうと、まず映画から始まるわけですね。京都太秦ですか、映画撮影所は・・・・。

森:はいそうです。太秦です。

安倍:太秦で、おじさんの嵐寛寿郎さんに・・・・。

森:ほんとうは従兄弟なのですが、年が離れているので鞍馬天狗の姪ということでデビュウいたしました。でも親戚の女の子が出るというのは、セリフがあったり、タイトルに出たり、とても特典があるようで、実際は逆でしたね。もうずーっと同じような役ばっかりになっちゃいまして。主役の男女のね、恋を邪魔したりとかね、そんな子供っぽいような役ばっかりでね、ちょっとつまらなかったですね。でもこういうものだと我慢してしまったのですけれど。

安倍:あの頃は映画の撮影所はどこだったんですか?

森:今の東映、あそこが新興キネマといいまして、永田雅一さん、あの方が撮影所長でした。

安倍:ああ、大映を作られる前の永田さんですね。

森:はいそうです。で、戦争の起こる、昭和16年の春にやめましたの、私、もうなんか歌が歌いたくて東京に出てきて。


GIの前で歌ったルムバ『小鳥売の歌』

安倍:歌のほうに行かれて、歌のお勉強は?

森:二期会に所属してらした関種子先生、クラッシックのアルトの先生で、ツテを頼って伺って教えていただくことになって、中野にあるお宅へよく伺っていました。でも歌はほんとにへたでしたね。

安倍:とんでもない。歌のほうに行きたいなと思われたのはもともと歌がお好きだったんですか?

森:歌が好きだったのです。宝塚も好きでしたけれど、どちらかといいますと水の江滝子さんが好きだったのです。

安倍:ああそうですか、ターキーさん、松竹歌劇団の。

森:はい、後年になって、私が行ってた美容院にターキーさんがいらしてて、もう口が利けませんでした、何十年たっていても。いや本当に歌は全然だめだったのですけど“前歌”という仕事はあるのですよね。女優でしたので、無名な人よりは特典があって。だんだん戦争が激しくなって仕事もなくなってきましたけど、慰問というのはありまして。第一線の戦地や陸・海軍の病院へ行きまして、兵隊さんの前で歌いました。前歌というのは、第一線の花形スターたちが何曲か唄って、女の方ならドレス、男の方でしたらタキシードなどに着替える、その間の二曲ぐらいをつなぐ役目なのです。

安倍:今や前歌って言葉は死語になりましたけど、大スターが出る前の前座に歌うから前歌ですよね。それから今おっしゃったような、スターが着替える間、それも前歌歌手がつなぐんですね。

森:もうすごいスターとご一緒させていただいています。二曲だけ歌う間ですから六分か七分か、そのぐらいにお着替えになるのでしょうね。

安倍:当時森さんが前歌をつとめられた歌手は、そんな人たちですか?

森:すごい顔ぶれでした。東海林太郎さん、藤山一郎さん、淡谷のり子さん、二葉あき子さん、渡辺はま子さん、岡晴夫さん、それから小畑実さん。女性はもっとたくさんいらっしゃいましたですね。のちに笠置シヅ子さんもいらっしゃいました。

安倍:じゃあ、戦争が始まった昭和16年からずっと戦争が終わるまでは前歌をやってらっしゃった。

森:はい、前歌をしていました。

安倍:それで戦争が終わって今度は進駐軍のクラブで。

森:そうです。それしかありませんでしたもの。

安倍:前にお話うかがいました、服部良一作曲のルムバ「小鳥売の歌」をアメリカ兵の前で歌ったというお話を。

森:アメリカの歌って知らないわけですよ。戦争中は敵国の言葉だからと英語を教えてもらえませんでしたし。じゃあ日本の歌でもルムバならまあいいかなと思って。それから着物はいいのですよ。

安倍:彼等には異国情緒だったんでしょうね。

森:振袖着て、そういう歌、歌っていたのですよ。大きい広―い食堂で歌うのです。みんな食事しながら聞くわけですよ。聞くといっても、ほとんど聞いてやしません。

安倍:じわじゃなくてガヤですね。ガヤガヤだ!

森:ガッチャガチャでした。日本の兵隊さんなら膝にちゃんと手を置いてこうやって(聞くポーズ)聞いてくださったのですが、GIは、おまけにナイフとフォークでしょ、そこへお皿でしょ、雑音がすごくてガッチャガチャガチャガチャ。そう、ちょっと怖い目に遭ったことがありました。ある日その「小鳥売の歌」歌っていましたらね、むこーうのほうから、広―い食堂を横切ってノッシノッシとやって来るGIが一人いるのですよ。黒人のGI、二メートルくらいあるような。どう考えてもこっちむいて近づいて来るのですよ。あれなんだろう?って。バンドの人達は、そういうときは冷たいのですね。ピアノの人はそっぽむいて弾いてるし、ドラムの人もみんな俺知らんぞって感じでしょ。

安倍:何か起こりそうだぞ!って。

森:ええ、そしたら、十メートルくらい手前かしら?そばへ来て立ち止まったのですよ。そのGIが。何か言っているのですよ、短い言葉で。同じことを何回も何回も。何だろうと思いましたらね、やっとわかりました。SWING SWINGっていっているのですよ。いくらわからなくてもSWINGくらいわかりますよね。ああそうか、ルムバの歌をこうやって胸の前で手合わせて歌っているからかなって?その当時ハンドマイクがないのです。センターに一本立っているマイクの前で、こうやって(ポーズして)歌っていたのです。女性歌手はみなさん大体同じスタイルで、男性歌手は両手をたらして握りこぶしを作ってこうやって(ポーズして)歌ってましたよね。それでSWINGして歌えということなのだなと思って、足をルムバ風にチャチャチャって。なかなか動かなかったけどやってみたら、じーっと見ていて、「グゥ!」って親指立てて言ってくれました。

安倍:なるほど!

森:私の兄も戦死したのですが、そこで初めて、ああ、こういう人たちと戦っていたのだなと。いい人たちなのだ、この人たちって思いながら。でもやっぱり敗戦というのはこういうものなのですね。

安倍:リズミカルに派手に歌うっていうのは、もともと日本人は下手でしたものね。それがむこうの人たちにはもの足りなかったんでしょう。それがSWING SWINGになったんですね、多分。

森:親切な、やさしいGIだったのです。教えてくれたのですものね。一所懸命、それから英語の歌をベティ稲田さんという二世のジャズ歌手の方に習って、いろいろ覚えました。「国境の南」「プリテンド」「ドリーム」「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」。

安倍:「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」、いい歌ですね、あれは。

森:まだあるわ。「センチメンタルジャーニー」、そんなのいっぱい教えてもらって。

安倍:ポニーキャニオンから出された「Mitsuko Mori」っていうボックスセットのなかに英語の歌は入ってますか?

森:いいえ入ってません。覚えていましたから入れていただけばよかった。
(続く)


私の本『喝采がきこえてくる』より 森さんとのツーショット(2007年)
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