森光子特別対談 『放浪記』はわたしの“金鵄勲章”です | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

森光子特別対談 『放浪記』はわたしの“金鵄勲章”です

 (はじめに)

 森光子さんとは、昭和33年(1958年)、菊田一夫氏(劇作家、東宝専務取締役)の目に止まり上京したときからのお付き合いであった。思い出はいっぱいある。

 心の澄んだ人だった。苦労したのに、いじけたところはなかった。ユーモアを解する人でもあった。

 いずれ私の気持ちが落ち着いたら回想記を書きたい。

 森さんとはいちどだけロング対談をしたことがある。私の著書『喝采がきこえてくる/ブロードウェイから東京までショウ・ビジネスの光と影』(2007年、KKベストセラーズ)が出版されるときで、この本に特別対談として収められている。

 亡き森さんを偲び3回に分け、改めて当ブログにアップします。

 森さんの自叙伝には『人生はロングラン』(日本経済新聞社)という題名がつけられている。波乱万丈のロングラン人生、お疲れ様でした。天国でゆっくりお休みください。



***************************************************

喝采って、あこがれます

安倍:森さんとは古いお付き合いです。でも一対一で対談したことはありませんでした。今回、対談をお願いしたのは、森さんほど、日本のエンタテイメントの世界、ショウビジネスの世界を戦前から平成に至るまで経験された方はいらっしゃらないと思ったので─。

森:そうですかしらね。

安倍:絶対にそうです。ところで今度の僕の本、『喝采がきこえてくる』というタイトルにしました。

森:いいタイトルですね。喝采って、好きです。

安倍:お芝居だろうが映画、コンサートだろうが何でもいちばん大切なのは喝采でしょ。

森:そうですね。

安倍:テレビの前でも喝采している人がいるかもしれない。

森:喝采って華やか、なんて言ったらいいのでしょう、あこがれますねえ。

安倍:何をおっしゃる!喝采をさんざん浴びてる人が!

森:いえいえ、浴びられなかった時間が長かったので、浴びたい気持ちばっかりで。少しは今日は手を叩いていただいたかな、と思ったりしていると、次の日はそうでもなかったり。で、もう喝采というのは待ち受けたりするものじゃないと思ってあきらめたころにきたりして。待ち受けていると、こないものです。

安倍:あっ、そういうものですか。よく歌舞伎の世界の人は、“じわ”がくるって言いますよね。

森:じわ、いい言葉ですねぇ、なんとも言えない。でもそれは、ご自分にしかわからないのでしょうね。

安倍:それは観客ではなく舞台に立ってる人のほうのことですか?

森:はい、今日はじわが押し寄せてきたなって。

安倍:自分にしかわからないってことは、たとえばじわがこう客席から迫ってくるときは森さんは感じられるんだけど、共演してる人にはわからない?

森:わからないです!

安倍:あっ、そういうものですか。

森:勘違いもあるでしょうしね。自分にだと思ったら、相手役の方に、じわがいって。

安倍:なんか野球のカーブみたいなもので、自分のほうに直球がくると思ったら向こうへスーっといっちゃう。

森:カーブだったり、Uターンだったり。

安倍:僕はこのじわという言葉を、新橋演舞場社長の岡副昭吾さんから教えてもらったんですよ。

森: いい言葉ですね、今、ご存じない方多いでしょうね。

安倍:知らないでしょうね。これは喝采と同じような意味ですよね。

森: じわは、喝采とちょっとまた違うもので・・・・。人にはわからない。はっきりとは目に見えない、そうじゃないかと思わせるもので、これは私へのジワジワだわ、と、でも、もしかしたら私の勘違いかなとか、そういう危なげのある言葉ですね、じわ、って。

安倍:勘違いかな、っていうところが森さんの謙虚なところですね。でも、じわがくるじゃ、ちょっと本のタイトルにならないですね。


 菊田一夫氏とのしあわせな出会い

安倍:そういうじわってものを意識されるようになったのは、やはり「放浪記」からですか?

森:いえ、もしかしたら、「放浪記」初演の前の年に「がしんたれ」(昭和35年10月~昭和36年3月、東京芸術座)という芝居で。

安倍:「がしんたれ」、知ってます。中山千夏ちゃんが出た。

森: はいそうです。あれは菊田(一夫)先生の少年時代のお話なのですが、そのときに私、二場出していただきました。しかも「放浪記」と同じ林芙美子さんの役です。菊田先生は林芙美子さんをよくご存知だったのですね。二場が開いてすぐ出て、大詰めの前の場、ちょこっと出て。そんなに大事な役ではないのですが、とってもいいご本でした。

安倍:僕もあのお芝居見たけど、もうすっかり忘れてしまいました。主人公とどういう関係の・・・・。

森: 菊田一夫少年が印刷工をやってまして、そこの印刷所に、芙美子の私が詩人の仲間を訪ねていくのです。そうしたら留守で、じゃあ私、待たせてもらうわという感じで・・・・。当時、詩人ばっかりが集まるおうちがあって、その家でしょっちゅう菊田さんは林さんと会ってらして、あんた、かわいいねと林芙美子さんに言われたとおっしゃってました。

安倍:事実を踏まえているんですね、台本が。

森: はい、それがとてもうれしかったそうです。お芝居のなかで芙美子は自分で一升瓶下げて、詩人仲間のところに行って、ねえ飲もうよって、ポーンと一升瓶置くのですね。みんなでそれを飲んで談論風発になって、それで飲み直そうかって、次のところに行くときには芙美子は誘われないのです。菊田少年は未成年だからもちろん誘われない。二人だけ取り残されて、そこでしゃべっているうちに、お腹がすいてくる。じゃあ、たいしたものないけどいい?って、菊田少年が、さつま揚げか鰯かなにか焼いたのかしら?それを二人でぼそぼそ食べるのですよ。その場が本当によく書けてたのです。そこが面白かったので、じゃあ来年、林芙美子で「放浪記」をやろうかっていうお話が出たのだと聞いてます。

安倍:その「がしんたれ」にたった二場ですけどお出になったそのときに、少しじわを感じられました?

森: (少し照れた感じで)少し感じました。私は「がしんたれ」がじわの原点だと思っています。

安倍:森さんにとってほんとうに、菊田先生との出会いは大きいですね。しかし人と人との出会いってのは出会ったそのときに何十年も続くとか、そういうことは予想しませんよねえ。

森: 全然、予想できませんでした。最初に私のことをご覧になったときには、昔の梅田コマで、中田ダイマル・ラケットさんという漫才の方がいらっしゃって、兄弟の漫才師の。

安倍:いわゆるダイ・ラケですね。今はない「アサヒグラフ」にふたりのことを書いたことがあります。

森: ダイ・ラケコンビ。私、その舞台へ娘役で出てて(昭和33年7月梅田コマ「あまから人生」)、で、「ここ八分よろしく」って書いてある箇所がありまして、先生がご覧になったのはそこだったのですけどね。終戦後の話で、防空壕から出てきて洗濯物をしぼりながら竿竹だか紐だかにかけながら何か歌う。一人のシーンなのですよ。しょうがないから歌を歌いまして・・・・。

安倍:ほお。この場面、八分間なんとか持たせろってことですね。

森: で、歌うといいましても一曲だけ歌うのもおかしいと思って四曲、その頃流行っている歌をメドレーで歌ったのです。洗濯物を干している間がシーンとしてますとおかしいから。裕次郎さんの「俺は待ってるぜ」とか、それから誰の歌でしたかしら?“おーい船方さん・・・(少し口ずさみ)”、そこから始まりましてね。あら恥ずかしい。

安倍:どうぞ!ご遠慮なく。

森: こんなところで・・・・(と恥ずかしそうに歌いだす)“おーい船方さん、お月さーんこんばんは、有楽町で、俺は待ってるぜ。”これで四曲です。

安倍:へー、なるほど。三波春夫の「船方さんよ」、藤島恒夫の「お月さん今晩は」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」ですね。

森: それでその芝居をやっているときに菊田先生が次の月に宮城まり子さんの芝居をなさるので打ち合わせにいらしてたのです。打ち合わせが終わって、ハイヤーをお頼みになったのですがまだ来ないって、それで客席の一番後ろでちょっとお待ちになる間ご覧になって、三分だったって先生がおっしゃってました。

安倍:ほう、じゃあそれがちょうどその物干し場のところですか。

森: そうなのです。あとで、別の方からうかがったのは、菊田先生が、あの子なんての?ってお訊ねになったって。で、森光子です、って。十七、八かい?っておっしゃったのですって。実は三十過ぎていましたのよ。

安倍:そんなに正直におっしゃらなくても・・・・。

森: あの子、今度の宮城まり子さんの舞台稽古のときに呼んどいてくれ、この客席で会って話したいからと、そうおっしゃってお帰りになったのだそうです。

安倍:もしも防空壕から物干し場へ行く、その場面を菊田さんがご覧にならなかったら・・・・。

森: そうでしたら、なかったですね。

安倍:森さんの今はない!文化勲章もなかったかもしれないですね。

森: あ、もちろん、そうですね、不思議なもので。

安倍:いや、今のは僕の言い過ぎでして。もちろん、その出会いがなくても森さんにはいろいろなチャンスが訪れたろうし、文化勲章かもしれなかったのですが。

森: いえ、絶対ないと思います。

安倍:人生の不可思議さですね。

森: で、三分しかご覧にならなかったとうかがっていたので、あとで先生にお聞きしたら、三分見りゃ人はわかるよとおっしゃってくださいました。

安倍:プロは、三分見りゃすべてが見通せる。

森: でも、ずーっとあとですね。ああ、あのときに私はなんというしあわせな出会いがあったのだろうと思うようになったのは。

安倍:そのときの梅田コマの台本作者が誰だったか、調べればすぐわかることですが、多分その作者が、書き込んでいれば、森さんが歌を歌うことがなかったし、書かれたあんまり粋でないセリフをしゃべっていたかもしれない。八分よろしく、それしか書いてなかったから森さんの一生懸命歌でつなごうと思われた、それが菊田さんとの出会いを生む。不思議なものですね。

森: 不思議ですね。ありがたかったです。

安倍:いいエピソードですね。

森: そして、お会いしたのです、次の月に。薄暗い客席でね。そしたらすぐにおっしゃいましたね。東京に芸術座っていう小屋があるの知ってる?って。はい知っておりますって言ったら、出たくない?っておっしゃる。もう、出たくないどころかね!とても手の届かないところだと思っていたものですから、いえ、出たいと思ってましたって言ったら、じゃあそこへ今度機会があったら呼ぶからって。で、君はあれだな、越路吹雪みたいにグラマーでもないし、宮城まり子みたいに個性的でもないかわワキ(脇役)でいくんだな、とおっしゃいました。はいそのつもりです、って申し上げて。お忙しい舞台稽古の間を割いてあってくださって。

安倍:いやあ、菊田さんは僕も時々お話させていただいていましたが、亡くなられて三十年以上たってみると(1973年、昭和48年4月4日没)、あの方が日本の演劇界に残された功績は大きいですよね。高島忠夫、江利チエミ主演で「マイ・フェア・レディ:を上演され、ブロードウェイ・ミュージカル日本版の先鞭をつけられたのも菊田さんです。でもどんどん忘れられてしまっていますね。

森: そうですね。先生のことはあまりお話したことないのですけれど、どういう方だったかということはもっといっぱい残したいなと思います。

安倍:お人柄ということでは森さんはどんなふうに感じられていたんですか?

森: いや私に対してはもう厳しいのひとことですね。

安倍:舞台や芸には厳しい方だったのですね。

森: だから、十五年もお世話になったのに、うーん褒められたことは一度くらいですか。

安倍:そうですか。

森: それで、昭和33年の12月公演の『花のれん』(11月~12月芸術座)というのに初めて出していただいたんです。(続く)


2009年5月22日、「放浪記」(帝劇)の楽屋にて、森さんと筆者。
$安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba