セルフ・カヴァー「再会」が収められている松尾和子の『お大事に/松尾和子イン・アメリカ』(1980年制作、ビクター)は、不思議なアルバムだ。自らの出自は、ジャズだと固く信じ、その証しのためもあって、わざわざロサンゼルスまで出向いてレコーディングしたのに、ジャズは1曲も入っていない。

 松尾のたっての希望で音楽監督を引き受けてもらった大立者のニック・ペリート書き下ろしの新曲は、確かに5曲入っている。しかし、すべて日本語の歌詞で歌われる(橋本淳3曲、岩谷時子2曲)。

 ペリートが松尾の伸びやかでしっとりとした味わいの声質をじゅうぶんに考慮し、曲先行で作曲したものらしい。スロー・バラードあり、リズミカルな曲調あり。ジャズになることをあえて避け、歌謡曲に近づけたニュアンスさえ感じられる。

 日本レコード大賞受賞曲「誰よりも君を愛す」を含む吉田正作品3曲も聴くことが出来る。吉田作品には、それ以前の歌謡曲にない都会色が品よくやんわりと滲み出ているが、その優れた特性がペリートの編曲、指揮によってより際立ったものとなっている。

 吉田作品に隠されていたスケール感がわーっと前面に押し出されて来たような印象も受ける。ペリートのこの仕事ぶりを生前の吉田さんはどう受け止めておられたであろうか。

 同じ松尾のアルバムでも、このアメリカ録音のものとすべて対照的なのが『夜のためいき』(66年、ビクター)である。楽曲はジャズ、ポップスで歌謡曲は1曲もない。録音は日本でおこなわれ、バックをつとめるのも小原重徳とブルーコーツ、八木正生クインテットと日本のバンドなのだから。『松尾和子イン・アメリカ』はLPしかないようで入手が難しいけれど、こちらのほうはCD復刻版(ディスク・ユニオン)もあり手に入り易いはずだ。

 「いそしぎ」「思い出のサンフランシスコ」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「イパネマの娘」「星降るアラバマ」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」など定番がずらり並んでいる。しかし、多くの歌手が歌って来た定番が唯の定番に終わっていない。

 私はふと「色揚げ」という言葉を思い出し、念のため辞書を引いてみたら、「染め物などの、色の仕上がり」(明鏡国語辞典)とあり、「鮮やかな色揚げ」という用例が引かれていた。

 松尾のジャズ・ヴォーカルには見事な色揚げがもたらす新鮮な驚きがある。だから、なんど聴いても飽きないし、40数年たった録音でも決して古びない。

 松尾は本質的にジャズ・バラード歌手である。しっとりと歌う腕前は今更いうまでもない。しかし、「蜜の味」「ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー」などリズミカルな曲もなかなかいける。

 バラードでしんみりしたあと、軽快な曲でキックを入れられると、急に“酔い”が回って来る。やばいぞと思ったら、もういちどバラードへ、ふたたび深く落ち着いた酔いに浸ることが出来るだろう。

 復刻CDで驚いたことがひとつ。アルバムの帯に“大女優、松尾和子の幻のジャズ、ヴォーカル作品!!”とあることだ。

 晩年の彼女は熟年女優として多少もてはやされはした。しかし、演技で玄人とはいい難い。

 それに松尾は、やせても枯れてもレコード大賞受賞歌手なのだ。ただ、あくまでも、つつましやかな存在で、大歌手風を吹かすことはまったくなかった。間違っても大女優であるはずがない。昭和芸能史でこんな“改ざん”がおこなわれるのはほんとうに困る。

 何より出自がジャズであることに誇りを持っていた彼女だけに、今ごろあの世で苦笑いをしていることだろう。


『夜のためいき』松尾和子の素敵なジャズが聴けます。
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