演劇評論の第一人者だった戸板康二さん(1915~93)に『ちょっといい話』(文春文庫、岩波現代文庫)という実在の人物にまつわる小咄集がある。へーえ、あの人がこんなことしたのとか、こんなこといったのとか、人生の機微に触れた“ちょっと”じゃない“とってもいい話”が、いっぱい詰まっている。

 エピソードのうちには思わぬ人生の教訓が含まれていて、知らず知らずのうちに生きるための心構えや知恵を授けられるという思い掛けない余徳にあずかることも出来る。

 さて関容子さんの演劇人々物伝『舞台の神に愛される男たち』(講談社)にも“ちょっといい話”が、どの頁にもいっぱい詰め込まれている。

 この本は、平幹二朗とか山田太一とか、それぞれ見事な生き方を貫いている人たちをその人たちならではの“ちょっといい話”で浮き彫りにした、ほどのよい長さの評伝集といえなくもない。

 ひとつだけ、私が思わず膝を叩きたくなった笹野高史のエピソードを紹介する。植木等との因縁話である。(あとの各人の数々の話は関さんの本でお読みいただきたい)。

 笹野の当たり役といえば、『上海バンスキング』(斎藤憐作、串田和美演出)のトランペット奏者バクマツである。実在した日本のトランペット吹き南里文雄(1910~75)がモデルといわれる。

 「植木さんとは『シカゴ』というミュージカルで御一緒したことがあって、あるとき僕を呼んで、これは君が持っているほうがいいと思うから、って、のれんをくださったんです。開けてみると、南里文雄さんのサインを染め抜いたもので、お葬式の香典返しに配られたものなんですね。それをわざわざ植木さんが持ってきてくださるということは、僕のバクマツを御存知ということで、とても嬉しかったです。」

 植木はもとジャズ・ミュージシャン(ギター)である。戦後のジャズ・シーンで南里文雄ともすれ違っていることだろう。葬儀に参列していても不思議ではない。

 一方、笹野は1948年(昭和23年)生まれ、『バンスキング』は79年の初演である。年齢からして笹野が南里の生演奏を聴いている可能性は少ないし、第一、この大ヒット・ミュージカルの初演時にすでに南里はこの世にいなかった。

 しかし、一枚ののれんによって日本芸能史を貫く糸のように南里~植木~笹野は結ばれたのだとしたら?

 これって“ちょっといい話”じゃありませんか。


笹野高史 『上海バンスキング』2010年パンフレットより。
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