1967年9月10日、ヘンリー・ミラーとホキ徳田はビヴァリー・ヒルズの友人宅で結婚式を挙げた。新郎75歳、新婦28歳だった。
ミラーのラブレターもろくに読まず、熱烈な求愛から逃げまくっていたはずのホキが、なぜOKする気になったのか。
根負け?同情心から?変なおじさんへの好奇心?彼の純愛を認めた?
結婚式の出席者約30人。新婦側として歌手仲間の雪村いづみ、青山ヨシオが出席した。全員で「SUKIYAKI」、すなわち「上を向いて歩こう」を合唱したそうだ。
江森陽弘著『ヘンリー・ミラーのラブレター』(講談社)のなかで、ホキが語っているところによると、ミラーは、
「ボクの家に住んでくれて、ただ面倒さえみてくれればいいよ。ホキを縛るつもりはないし、独身時代の気持ちで来て、一緒にいてほしい」
と頼んだそうだ。
彼女からの条件は、あなたとはベッドをともにしない、ルームメイトとして日本人の女友達プーコを連れていく、このふたつだった。
かなり無茶苦茶な申し出だったが、文豪がそれをあっさり飲んだのは、なにがなんでもホキを手元に置きたかったからだろう。
66年秋だから、ふたりがまだ結婚していない以前に、私は、ホキの案内でロサンゼルス郊外、パシフィック・パリセーズのヘンリー・ミラーの家を訪れている。
板敷きの居間にピンポン台が置いてあり、家の外には緑の芝生が広がっていた。芝生の向うにはプールがあった。どこからともなく集まって来たような若い男女が、ピンポンをしたり泳いだりしていた。
ピンポンといえば、ホキが初めてミラーと出会ったのはとある邸宅での深夜のピンポン大会だった。彼女は、ハリウッドの映画プロデューサーに連れられていって、文豪とお手合わせをすることになる。
ふたりの腕前については私の知るところではない。
実は結婚式がとりおこなわれた場所というのは、ふたりのそもなれそめの、その屋敷であった。式当日もピンポンで盛り上がったと聞いている。
結婚したものの、ふたりの同居は3年をもって終止符を打たれる。ただし、離婚はせず、時折、デートを重ねた。結婚したまま恋人に戻ったというわけだ。
ヘンリー・ミラーは、代表作『セクサス』などでの苛烈な性描写で知られる。20世紀文明社会のなかで失われた本来の人間性を赤裸々な性行動によってとり戻すというのが、彼の文学的テーマのひとつであった。
文学と実生活は別かもしれない。しかし、文学は実生活の反映でもある。実際、ミラーはホキ以前に4回結婚しているその道の猛者でもあったのだ。
にもかかわらず、ホキのセックスレスという結婚の条件を飲んでしまったことが、文豪の敗因ではなかったのか?
ホキ徳田は、ふたりの意志疎通に英語の問題が横たわっていたといっている。日常会話には不自由なかったが、相手が文学者であれば、当然、英語のハードルは高くなる。言葉に対する感性も鋭敏だったろうし。
「国際結婚って、お互いに食いたりない部分が残っちゃってね。まあ、若気の至りっていう感じの結婚だったけど、いまではステキな人と出会ったな、そう思っているわけよ」
(江森氏の著書より)
1978年、正式に離婚。
1980年、ヘンリー・ミラー逝去。
ミラーは余技として絵筆もとった。ホキが女主人と弾き語りをつとめる六本木の会員制バー「北回帰線」には、何枚もの水彩画が飾られている。プロ級の腕前である。
女性像が多く、その伸びやかでしゃれた描写にはミラーの女性へのオマージュが滲み出ているように思える。
http://kitakaikisen.jimdo.com/now/
ミラーのラブレターもろくに読まず、熱烈な求愛から逃げまくっていたはずのホキが、なぜOKする気になったのか。
根負け?同情心から?変なおじさんへの好奇心?彼の純愛を認めた?
結婚式の出席者約30人。新婦側として歌手仲間の雪村いづみ、青山ヨシオが出席した。全員で「SUKIYAKI」、すなわち「上を向いて歩こう」を合唱したそうだ。
江森陽弘著『ヘンリー・ミラーのラブレター』(講談社)のなかで、ホキが語っているところによると、ミラーは、
「ボクの家に住んでくれて、ただ面倒さえみてくれればいいよ。ホキを縛るつもりはないし、独身時代の気持ちで来て、一緒にいてほしい」
と頼んだそうだ。
彼女からの条件は、あなたとはベッドをともにしない、ルームメイトとして日本人の女友達プーコを連れていく、このふたつだった。
かなり無茶苦茶な申し出だったが、文豪がそれをあっさり飲んだのは、なにがなんでもホキを手元に置きたかったからだろう。
66年秋だから、ふたりがまだ結婚していない以前に、私は、ホキの案内でロサンゼルス郊外、パシフィック・パリセーズのヘンリー・ミラーの家を訪れている。
板敷きの居間にピンポン台が置いてあり、家の外には緑の芝生が広がっていた。芝生の向うにはプールがあった。どこからともなく集まって来たような若い男女が、ピンポンをしたり泳いだりしていた。
ピンポンといえば、ホキが初めてミラーと出会ったのはとある邸宅での深夜のピンポン大会だった。彼女は、ハリウッドの映画プロデューサーに連れられていって、文豪とお手合わせをすることになる。
ふたりの腕前については私の知るところではない。
実は結婚式がとりおこなわれた場所というのは、ふたりのそもなれそめの、その屋敷であった。式当日もピンポンで盛り上がったと聞いている。
結婚したものの、ふたりの同居は3年をもって終止符を打たれる。ただし、離婚はせず、時折、デートを重ねた。結婚したまま恋人に戻ったというわけだ。
ヘンリー・ミラーは、代表作『セクサス』などでの苛烈な性描写で知られる。20世紀文明社会のなかで失われた本来の人間性を赤裸々な性行動によってとり戻すというのが、彼の文学的テーマのひとつであった。
文学と実生活は別かもしれない。しかし、文学は実生活の反映でもある。実際、ミラーはホキ以前に4回結婚しているその道の猛者でもあったのだ。
にもかかわらず、ホキのセックスレスという結婚の条件を飲んでしまったことが、文豪の敗因ではなかったのか?
ホキ徳田は、ふたりの意志疎通に英語の問題が横たわっていたといっている。日常会話には不自由なかったが、相手が文学者であれば、当然、英語のハードルは高くなる。言葉に対する感性も鋭敏だったろうし。
「国際結婚って、お互いに食いたりない部分が残っちゃってね。まあ、若気の至りっていう感じの結婚だったけど、いまではステキな人と出会ったな、そう思っているわけよ」
(江森氏の著書より)
1978年、正式に離婚。
1980年、ヘンリー・ミラー逝去。
ミラーは余技として絵筆もとった。ホキが女主人と弾き語りをつとめる六本木の会員制バー「北回帰線」には、何枚もの水彩画が飾られている。プロ級の腕前である。
女性像が多く、その伸びやかでしゃれた描写にはミラーの女性へのオマージュが滲み出ているように思える。
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