いつぞや、どこかの割烹料理店で友人にご馳走になったあと、その友だちを誘って四谷のレストラン、オテル・ド・ミクニのバーでディジェスティフ(食後酒)をやっていたら、オーナー・シェフの三国清三君がすうっと近づいてきて、
「これ、ちょっと試してみてください」
 とさり気なく一皿の料理を差し出した。

 見るとクラッシュド・アイスの上に殻つきの牡蠣が並んでいる。ただし生牡蠣ではない。牡蠣の身のまわりはゼラチン状のもので固められ、あしらいに海草が添えられている。
 瞬間、私は、
「お主、やりおったな」
 と思わずほくそ笑んでしまった。

 この日から遡ること二ヵ月ほど前のことだったろうか。ある夜、ミクニでフルコースのディナーを堪能したあと、仕事が一段落したシェフが姿を現わし、フランスの三つ星レストランの品定めとなった。

 そのとき、私は、行ってきたばかりのブルゴーニュはヴェズレーのオーベルジュ(田舎にあるホテル付きレストラン)、レスぺランスで味わった牡蠣のゼリー寄せの話をした。
「一見、ハーフ・シェルの生牡蠣のようだけれど、牡蠣に軽く火が通っている。まわりのゼリーと調和して実に上品な味に仕上がっているんだな」

 そんな私の素人の寸評を受けて、三国君は、
「多分、クール・ブイヨンでほんのちょっとポッシェして、その同じブイヨンを注ぎ、冷やして固めたものだと思いますよ」
 と玄人の注釈を加えてくれた。

 ちなみにクール・ブイヨンとは、人参、セロリ、ブーケ・ガルニ(香草の束)などで味を整えた魚の煮汁のこと、ポッシェとは軽く茹でることである。

 あのとき三国君は、私の披露したレスぺランスの一皿を深く心にとどめたようにも見えなかったが、ちゃんと記憶していて形にして出してみせるあたり、さすがプロフェッショナルというほかない。

 同じ牡蠣のゼリー寄せでも三国君のとレスぺランスのムッシュウ・マルク・ムノーのとでは、断るまでもなくその風味に微妙な差があった。日本とフランスでは牡蠣も煮汁に使う魚も違うだろうから、料理の味も変わってくる。

 マルク・ムノーの味を思い出しつつ三国君のをじっくり舌の上で確かめてみると、日本人シェフの料理らしくやや淡白、しかし、洗練された深みということではより優れているように思えた。

 それと海草のあしらいは、三国君の独創で、ムノーのにはなかった。いかにも北海道の漁村、増毛の生まれの彼らしい工夫ではないか。

 ところでオテル・ド・ミクニは、フランス語で書けばHotel de Mikuniとなる。Hotelは、英語のhotelとまったく同義語である。
 そこで謎々をひとつ。レストランなのに、どうしてホテルと呼ばれるのでしょうか。もちろん、ここはオーベルジュではないから、宿泊施設はない。

 実はこれは、三国君がかつて修行したローザンヌ近郊クリシエ村のレストランの名前に因んでいるのです。
 現在、オーナーシェフの姓名をそっくりとってフレディ・ジラルデと称するそのレストランは、一九七六年、開店当初はHotel de Villeと呼ばれていた。

 オテル・ドゥ・ヴィルとはフランス語で市役所、町役場、村役場を意味する。
ムッシュウ・ジラルデは、クリシエ村の古い村役場だった建物を買い取ってレストランに作り変えたので、店の名前もそのままオテル・ドゥ・ヴィルにしたのである。

 三国君が汗水流して厨房で働いていたころは、当然ながらフレディ・ジラルデではなくオテル・ドゥ・ヴィルだった。彼が故国日本で晴れてオーナー・シェフとなったとき、それにあやかってオテル・ド・ミクニという看板を掲げたその気持、じゅうぶんに察せられるというものだ。

 ついでながら仏和辞典でhotelを引いてみると、館とか邸宅という意味もある。学習院初等科裏の個人の邸宅を改装して出店したといういきさつからしても、この名称、ぴったりのような気がする。

 私は、テーブルのある空間もさることながら、このレストランではバーをことのほか愛している。ここでの食前のキール・ロワイヤル、食後のマール(ワインをしぼったあとの葡萄の実で作ったブランデーの一種)は、三国君のフルコース料理のまさにプロローグとエピローグである。キッチンの火が落とされたあとだったら、シェフと挨拶する機会もなくはない。

 それに例の牡蠣のゼリー寄せではないが、シェフが試みに作った新しい料理を味わえるというしあわせにだって、遭遇することもあるのだから。

 ときどき私は思う。食いしん坊の至福のひとときとは、ひいきのレストランのバーでその日の料理を反芻しているときではないか、と、、、、、。
(「GRAND MAGASIN」1997年3月号)