あなたのボーイフレンドはどっちの型のスーツを好んで着てますか。ブルックス・ブラザーズ風のトラッド、それともジョルジオ・アルマーニに代表されるソフト・スーツ?

 私はというと、どちらかといえば長いこと前者だった。一九六三年以来、ついこの間まで、決まった一軒の洋服屋で三つぞろいのスーツを仕立てもらって着てきた。注文するたびに仮縫い、中縫いをしてもらい、ジャケットもヴェストもズボンもからだにぴたり吸いついているような出来上がりでないと、着ていてしっくりこなかった。

 だからソフト・スーツには抵抗感があって、誰かが着ていてもダブダブで格好悪いなあという気がしていたものだ。

 一九八八年度ブロードウェイでトニー賞ベスト・プレイに輝き、ジョン・ローン主演で映画にもなった「Mバタフライ」という芝居があった。日本では市村正親がやっている。
 北京駐在のフランスの外交官が京劇の女形俳優をほんものの女優だと思って、長年にわたって熱愛するという嘘のような物語だが、実話である。女形は実はスパイで、西側の情報を聞き出していたのだった。

 その京劇のおやまが、自ら女の仮面をはぎとって外交官の前に現われ、大見得を切る場面がある。ダブルのジャケットの前身ごろを開き、両手をズボンのポケットに突っ込んだ姿勢で大声で叫ぶ。
「よく見ろ、アルマーニだぞ」
 ブロードウェイでこの景の受けたこと。

 ちなみに戯曲に当たってみたら、この場面はパリ、八八年という設定になっている。「Mバタフライ」の公演が始まったのも同じ年である。ということは欧米では、このころ、アルマーニというブランド名がじゅうぶんに浸透していたということだろうか。

 セゾン劇場で市村君がやったのは八九年だが、残念ながらここのところの観客の反応はかなりにぶかった。

 私が恐る恐るソフト・スーツに腕を通すようになったのは、九二、三年くらいからだと思う。知合いのカフェ・バーのマダムが(多分、この手の店のブームが終わったのだろう)、ブランドものの平行輸入の仕事を始め、盛んにすすめるので騙されたと思って一着買ったのがきっかけだった。

 いざ着てみて、着心地のなんと楽ちんなこと。なにやら肩のこりも解消したような気さえする。とたんにソフト・スーツ派の秋元康さんなんかに会っても、ダブダブが気にならないどころか、うーんさすが時代の先端をいって、うまく着こなしているなあなどとすっかり感心するようになってしまった。

 以来、私は遅蒔ながらソフト派へ転向したというわけだが、この間(九六年十月)、フィレンツェのグッチでスーツを試着してみて仰天してしまった。

 翌晩が浅利慶太演出のオペラ「蝶々夫人」の初日で、それにめかし込んで出掛けようと選んだ一着のなんとタイトなこと。いつもよりワン・サイズ上のを着てやっとジャケットの前釦かかるかかからないかぐらいなのである。

 もうひとつ大きいサイズのをと注文をつけたところ、イタリア人の男性店員は、「今シーズンのブランド・ニュウで、こういうスタイルなのですから」
 と頑として譲ろうとしない。どうやら男性スーツはタイトなスタイルへと移行し始めているらしい。

 私がそのきちきちの、前釦をかけるとジャケットの前に横じわがよるようなスーツを買う気になったのは、翌晩のオペラのほかにもうひとつ理由があった。帰国するとほどなく、十七回忌を迎える越路吹雪を偲ぶ会があるのだが、その会に着ていったらどうだろうかとふと思いついたからだ。

 “浅利バタフライ”を見にこのルネッサンスゆかりの街へきていながら、なにはさて措き、グッチへやってきたのは、今は亡き越路を偲ぶよすがを求めてのことである。
 生前、越路はよくいっていた。
「グッチはね、ローマよりどこよりフィレンツェが、あたしは好きよ」
と。

 そのフィレンツェのグッチで求めたスーツで偲ぶ会に出掛けたら、きっと天国の彼女も喜んでくれるにちがいない。

 越路を偲ぶ会は、十一月五日(祥月命日は七日)、高輪プリンスホテルでおこなわれた。参加者二百三十名。ビュッフェだが、全員が着席できるようテーブルがしつらえられているので、会場の雰囲気がざわついたものにならず、とてもよかった。

 実は私は、司会を引き受けた人物に急用ができたため、突然、その代役を仰せつかるはめになってしまった。肩章がついていたりしてお洒落なグッチ・スーツを買ってきた甲斐があったというものだ。

 会の終わり近く、私は、ふと思いついて出席者に呼びかけた。
「どうです皆さん、全員で遺影に向ってコーちゃんと声をかけませんか」

 二百三十名のコーちゃんの掛け声が会場に響いたとき、写真の彼女が心なしか微笑んだように見えた。
(「GRAND MAGASIN」1997年2月号)


(追記)男性ファッションは依然としてタイトが主流のようですね。私は「サルト」という抜群の直し屋さんを見つけたので、昔のジャケット、スーツをタイトにしてもらい着ています。
「サルト」については2011年8月18日の当ブログをご参照ください。