世間は築地の鮮魚市場を初めとしてお盆休みなので、当方のブログもそれに便乗して一休みしたいと思います。
その間はしばらくアーカイヴで埋め合わせをさせていただきます。
皆さん、猛暑の中、ご自愛を。
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笑い話をひとつ。と言っても、これはれっきとした実話である。
私の友人で日本航空パリ支店の支店長をつとめていた人がいる。航空会社の幹部社員というのは、出張の折、その路線に自分のところの便があるときはかならずそれに乗る。本社で会議があるので、ちょっと東京へ戻ることになったとき、その私の友人が乗ったのは、自社のボーイング747だった。
やがて飛行機が離陸し、水平飛行に入った頃合を見計らって、ファースト・クラスの座席にすわっていた彼のところへ、スチュワーデス(近ごろはこう呼ばなくなったんでしたね。JALはキャビン・アテンダントだったでしょうか)が飲みものの注文をとりにやってきた。
食前酒をスキップして、と言うより食前酒も兼ねて初めからワインにしようと思っていた彼は、おもむろに
「ワイン、きょうは何があるの」
とたずねたところ、彼女が答えて言うのには、
「はい、赤と白がございます」
そのあとの続きはさて置くとして、私は友人知人とワイン談義に花が咲くとき、よくこのパリ支店長氏の話を披露する。相手の反応によって、その人のワインへの関心度がおのずと知れるからだ。
もちろんワイン大好きという人たちは、大声を上げてワッハッハッハと笑ってくれる。たまにはきょとんとして無反応の人がいないわけではない。実はそういう人は、ワイン談義に加わっていても、たまたまなりゆきでそうなっただけで、迷惑していたのかもしれない。
当然のことながら、そのとき支店長氏がスチュワーデスに望んだのは、白ならこれこれ、赤ならこれこれと産地と銘柄を答えてもらうことだった。ヴィンテージ(収穫年)までは期待しなかったとしても、ボルドーの赤と白はこれこれ、ブルゴーニュの赤と白はこれこれぐらいは聞きたかったのだろう。
私にその話をしてくれたとき、彼は言っていた。
「乗客であることを忘れ、思わず会社の上司になって、何言ってるんだ、馬鹿野郎って叫んでしまいましたよ」
一口に言って、ワインというのは深遠な森のようなものである。魅力にひかれて一歩足を踏み入れると、そのまま奥へ奥へと進んでいきたくなる。ビール、日本酒、ウイスキーだって深めたくなるような奥義がないわけではないけれど、産地、銘柄、ヴィンテージの複雑多様はワインの足もとにも及ばない。
ワインの場合は葡萄の種、数はもちろん、畑の地味、日照の具合までその品質に影響をあたえるファクターが数限りなくある。すなわち、それらのファクターの順列組み合わせの総数だけワインの種類があるということで、いくら勉強したって追いつけるはずがない。
よくアンチ・ワイン派の人から、
「ワイン好きはどうしてあんなに屁理屈こねるんだ」
という批判を耳にする。
グラスのいちばん下を持って、くるくる回しながら飲むようなワイン通には、なんだか気取ってるなと思わないでもない。
でもしかし、ボルドーとブルゴーニュはそれぞれフランスのどの辺に位置するかを、知っているのと知らないのでは、ワインの楽しみにかなり開きが生じるはずである。
ワインには赤、白のほかにロゼがある。よく初心者はロゼからとか、ロゼは魚料理、肉料理両方に合うとかもっともらしいことを口にする人がいるが、私に言わせれば、これはすべて俗説ですね。
ロゼは、赤ワインの製造過程で葡萄の果皮をとり除くことで作られる。赤、白のワインを混ぜ合わせて作ることもある。しかし残念ながら、赤にも白にもあるような超特級のワインは見当たらない。
ロゼは、赤、白ともによくわかった人が、気分転換にお遊びで飲む類のワインである。初心者は、赤でも白でも、飛び切りのものとは言わないが、ある程度品質の保証されたものから飲み始めるほうがいいに決まっている。
初めにいいワインをしっかり味覚に覚え込ませておくと、善し悪しの判断がおのずとつこうというものだ。
ロゼで引き立つ料理というのも、私は寡聞にして知らない。ロゼに往々にしてある甘さが、料理の味を壊しかねないこともある。
辻調理師学校二代目校長の辻芳樹君の結婚披露宴が、ホテルオークラでおこなわれたときのこと。前菜のテリーヌ・ドゥ・フォアグラにアルザスのロゼが供された。なるほどこれならわかる。ロゼの甘さがフォアグラのリッチさを引き立てるからだ。第一、フォアグラはアルザスはストラスブールの特産品でもある。
ところで最近、日航や全日空の搭乗員の間でソムリエの資格をとるのが流行しているという。この間も私の乗ったロンドンからの全日空便にひとりいた。誇らし気に葡萄のかたちのバッジをつけているから、すぐにわかる。
きょうはすばらしいワインのサーヴィスをしてもらえる、と思ったら、
「あたし、単なるノム(飲む)リエです」
悪い冗談もほどほどに―。
(「GRAND MAGASIN」1996年10月号)
(追記)最近はサーヴィスの前にワイン・リストが配ばられるから、こういう椿事は起こらないかも。いや私の友人の支店長は配ばられる前にキャビン・アテンダントにたずねたのかな。
その間はしばらくアーカイヴで埋め合わせをさせていただきます。
皆さん、猛暑の中、ご自愛を。
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笑い話をひとつ。と言っても、これはれっきとした実話である。
私の友人で日本航空パリ支店の支店長をつとめていた人がいる。航空会社の幹部社員というのは、出張の折、その路線に自分のところの便があるときはかならずそれに乗る。本社で会議があるので、ちょっと東京へ戻ることになったとき、その私の友人が乗ったのは、自社のボーイング747だった。
やがて飛行機が離陸し、水平飛行に入った頃合を見計らって、ファースト・クラスの座席にすわっていた彼のところへ、スチュワーデス(近ごろはこう呼ばなくなったんでしたね。JALはキャビン・アテンダントだったでしょうか)が飲みものの注文をとりにやってきた。
食前酒をスキップして、と言うより食前酒も兼ねて初めからワインにしようと思っていた彼は、おもむろに
「ワイン、きょうは何があるの」
とたずねたところ、彼女が答えて言うのには、
「はい、赤と白がございます」
そのあとの続きはさて置くとして、私は友人知人とワイン談義に花が咲くとき、よくこのパリ支店長氏の話を披露する。相手の反応によって、その人のワインへの関心度がおのずと知れるからだ。
もちろんワイン大好きという人たちは、大声を上げてワッハッハッハと笑ってくれる。たまにはきょとんとして無反応の人がいないわけではない。実はそういう人は、ワイン談義に加わっていても、たまたまなりゆきでそうなっただけで、迷惑していたのかもしれない。
当然のことながら、そのとき支店長氏がスチュワーデスに望んだのは、白ならこれこれ、赤ならこれこれと産地と銘柄を答えてもらうことだった。ヴィンテージ(収穫年)までは期待しなかったとしても、ボルドーの赤と白はこれこれ、ブルゴーニュの赤と白はこれこれぐらいは聞きたかったのだろう。
私にその話をしてくれたとき、彼は言っていた。
「乗客であることを忘れ、思わず会社の上司になって、何言ってるんだ、馬鹿野郎って叫んでしまいましたよ」
一口に言って、ワインというのは深遠な森のようなものである。魅力にひかれて一歩足を踏み入れると、そのまま奥へ奥へと進んでいきたくなる。ビール、日本酒、ウイスキーだって深めたくなるような奥義がないわけではないけれど、産地、銘柄、ヴィンテージの複雑多様はワインの足もとにも及ばない。
ワインの場合は葡萄の種、数はもちろん、畑の地味、日照の具合までその品質に影響をあたえるファクターが数限りなくある。すなわち、それらのファクターの順列組み合わせの総数だけワインの種類があるということで、いくら勉強したって追いつけるはずがない。
よくアンチ・ワイン派の人から、
「ワイン好きはどうしてあんなに屁理屈こねるんだ」
という批判を耳にする。
グラスのいちばん下を持って、くるくる回しながら飲むようなワイン通には、なんだか気取ってるなと思わないでもない。
でもしかし、ボルドーとブルゴーニュはそれぞれフランスのどの辺に位置するかを、知っているのと知らないのでは、ワインの楽しみにかなり開きが生じるはずである。
ワインには赤、白のほかにロゼがある。よく初心者はロゼからとか、ロゼは魚料理、肉料理両方に合うとかもっともらしいことを口にする人がいるが、私に言わせれば、これはすべて俗説ですね。
ロゼは、赤ワインの製造過程で葡萄の果皮をとり除くことで作られる。赤、白のワインを混ぜ合わせて作ることもある。しかし残念ながら、赤にも白にもあるような超特級のワインは見当たらない。
ロゼは、赤、白ともによくわかった人が、気分転換にお遊びで飲む類のワインである。初心者は、赤でも白でも、飛び切りのものとは言わないが、ある程度品質の保証されたものから飲み始めるほうがいいに決まっている。
初めにいいワインをしっかり味覚に覚え込ませておくと、善し悪しの判断がおのずとつこうというものだ。
ロゼで引き立つ料理というのも、私は寡聞にして知らない。ロゼに往々にしてある甘さが、料理の味を壊しかねないこともある。
辻調理師学校二代目校長の辻芳樹君の結婚披露宴が、ホテルオークラでおこなわれたときのこと。前菜のテリーヌ・ドゥ・フォアグラにアルザスのロゼが供された。なるほどこれならわかる。ロゼの甘さがフォアグラのリッチさを引き立てるからだ。第一、フォアグラはアルザスはストラスブールの特産品でもある。
ところで最近、日航や全日空の搭乗員の間でソムリエの資格をとるのが流行しているという。この間も私の乗ったロンドンからの全日空便にひとりいた。誇らし気に葡萄のかたちのバッジをつけているから、すぐにわかる。
きょうはすばらしいワインのサーヴィスをしてもらえる、と思ったら、
「あたし、単なるノム(飲む)リエです」
悪い冗談もほどほどに―。
(「GRAND MAGASIN」1996年10月号)
(追記)最近はサーヴィスの前にワイン・リストが配ばられるから、こういう椿事は起こらないかも。いや私の友人の支店長は配ばられる前にキャビン・アテンダントにたずねたのかな。