赤い表紙の「ミシュラン・ホテル・レストラン」は、世界中の食いしん坊にとって欠かすことのできないガイド・ブックである。これに対抗するさまざまな食のガイド本があるが、「ミシュラン」を信頼する人がいちばん多いのではなかろうか。私もそのひとりで、古くからあるミシュランをどうしても重く見てしまう。

 ミシュランはフランスの代表的タイヤ会社である。この会社が旅行案内を出版したのは、二十世紀初めにまで溯る。
 いったいなぜ、タイヤ会社がホテル・レストラン案内を出したのかというと、フランス国内のもっとも便利な交通手段は、全国的に道路が整備されていることもあって、自動車だからなんです。

 フランス人というのは、国民すべてが総じて食いしん坊だから、とんでもない田舎にいっても素晴らしいレストランがある。ミシュランから最高栄誉の三つ星をもらっているレストランにかぎって、車でしかいきようのない辺鄙な場所にあったりする。旅行案内を定期的に出版することが自分の会社とその製品の間接的PRになると、ミシュランが信じたとしても不思議でもなんでもない。

 ミシュランは赤表紙の「ホテル・レストラン」のほかに緑色の「グリーン・ガイド」と呼ばれる観光・名所案内と地図も出版している。ミシュラン三点セットがあれば、フランス国内どこへいくにも不自由しない。

 念のためにつけ加えておくと、「ホテル・レストラン」はイギリス篇、ドイツ篇、イタリア篇などもありヨーロッパ諸国を網羅している。「グリーン・ガイド」のほうにはフランス各地を旅行するときに便利な「ロワールの城」「プロヴァンス」なんてのがあるかと思えば、「ニューヨーク」もある。

 もしもあなたが、ミシュラン三点セットを自在に使うことができれば、それはもう旅行の大ヴェテランの資格十分というものだ。

 ところでミシュラン赤表紙が査定するレストランのランキングは、その年々で変動がある。ランキングは三つ星、二つ星、一つ星、無印の四段階に分かれていて、前の年と比べて星が増えるものもあれば減るものもあるということだ。

 ことしの暮れも、フランス中のレストランが、世界中のおいしいもの好きが、どのように星が変化するかその発表を待ち望んでいた(もちろんイタリア篇でもどこ篇でも星の変動はあるけれど、人々の関心はフランスのレストランのそれに集中する。つまりフランス以外のレストランのおいしい、まずいなんてタカが知れているということです)。

 ことしの星の変動でいちばんショッキングなニュースは、「トゥール・ダルジャン」が三つ星から二つ星に降格したことだろう。鴨料理で有名なこの店が三つ星にランクされたのは、なんと一九三三年のことで、その間、五二年に一年だけ二つ星に降格されたものの、ずっと栄誉の最上位を確保し続けてきた。

 このトゥール・ダルジャンには昭和天皇もお出まし遊ばしたことがある。「あなたが今晩、召し上がる鴨は、開店以来から何万何千番目にあたります」と番号を明示することでも知られている。

 かつて陶芸家にして料理人としても著名な北大路魯山人がトゥール・ダルジャンで鴨のローストを注文したとき、いっしょについてくるソース(鴨から出る血を赤ワインで煮詰めたもの)を拒否し、やおら羽織のたもとから山葵、卸金、醤油を取り出し、山葵醤油を作って食べたという逸話が残っている。

 なにかにつけて、この逸話が話題になるとき、さすが魯山人という賞賛の声が聞かれるが、果たしてフランス料理として調理された鴨が山葵醤油に合うかどうか、私ははなはだ疑問に思う。もちろん、まずくはないだろうが、鴨肉、香辛料、油などが渾然一体となってかもし出す味わいを霧散させてしまう危険性も大いにある。

 魯山人のこのやり方は、この店のオーナーで料理も常に目を光らせているムッシュウ・テライユに対して非礼というものだろう。
 ここの鴨料理には長年にわたって工夫に工夫を重ねてきたソースが、絶対合うに決まっているのである。

 それともうひとつ、その折、魯山人はワインを飲んでいたかどうか、それも併せて考えに入れなくてはならない。もし飲んでいたら、これほどの格式の店だから、結構上等な赤ワインのはずである。山葵醤油はワインの風味を決定的に壊すはずで、この食の天才とも謳われた人物のやったことは、愚かな行為としか言いようがない。

 ところで、トゥール・ダルジャンは日本語にすると「銀の塔」である。不思議なことに東京にはトゥール・ダルジャンというレストランもあるし、銀の塔という店もある。前者はもちろんパリの本店の出店でちゃんとここでも鴨を食べさせてくれる。
 しかし後者はパリの店とはなんの関係もなく、売りものはビーフ・シチュウとくる。歌舞伎座の近くにあるせいか歌舞伎役者に贔屓が多い洋食屋である。(「GRAND MAGASIN」1996年7月号)


(追記)その後、「ミシュランガイド東京・横浜・鎌倉」「京都・大阪・神戸」「香港」などが出版されるようになったのはご存知の通りです。