1年1ヵ月、230回ほどブログを書いたらちょっと疲れました。しばらく休み英気を養いたいと思います。一ヶ月かそこいらでしょうか。ただ期間はわかりません。
しかし、結構読んでくださっている方々が多いようなので、便法として
私の古いスクラップブックから女性誌「GRAND MAGZIN」に連載したエッセイを転載することにいたしました。是非ご愛読いただきたく。(筆者はさほど古びていないと自負しているのですが)


 こんど生まれたらなにになりたい?そう尋ねられたときの私の答えは決まっている。バイリンギャル、じゃなかった、バイリンボーイになりたい。実は常日ごろからそう強く望んでいるのだ。

 ちょっと自己紹介させてもらうと、私は昭和一桁生まれである。昭和二十年代、アメリカ映画と進駐軍放送で十代を送った。

 高校の同級生でちょっと出来のいいのは、大学を出るか出ないかのうちにフルブライト(故フルブライト上院議員が設立した留学制度)で、すいすいとアメリカ留学を果たした世代だ。ところが、私はといえばハリウッドとジャズにうつつを抜かしていたせいで、英語にせよなんにせよ、ひとつも外国語をものにできないまま、いい年になってしまった。

 最近はテレビでも、海外経験の豊富なバイリンギャルの花盛りである。キャスターやリポーターは、バイリンガルどころかマルチリンガルが必要条件になりつつある。英語ひとつ満足に操れない私なんぞは、時代遅れもはなはだしいということになりかねない。

 私が初めて海外に出たのは、一九六五年のことである。ジャンボ機以前のこと、DC8やボーイング707を乗り継いで、四十五日間かけてアメリカ、イギリス、フランス、イタリーと世界をひと巡りした。

 早朝、最初の寄港地ホノルルに着き、ハレクラニ・ホテルのテラスで小鳥がいっぱい寄ってくるのを見やりながら、朝食を頼んだとおぼしめせ。

 オレンジジュースを、といったら、ボーイが「Large or small?」と問い返してきた。とっさに、エッ、オレンジの果実に大きいのと小さいのと二種類あるのかと錯覚してしまったが、もちろん、これはグラスの大小のことですよねぇ。

 目玉焼きには黄身が上向きのサニーサイド・アップと逆にひっくり返したターン・オーヴァー(ターノーヴァーと聞こえる)があること。ゆで卵にはハード・ボイルドとソフト・ボイルド(うるさいところでは「How many minutes?」と尋ねられる)があることなどを知ったのも、ホノルルから始まったアメリカ旅行中のことだった。

 いまどきのお嬢さん方ときたら、こんなふうに私が体験的にひとつひとつ覚えていったことなど、ごく当たり前の常識として身につけているのだから、ほんとうにうらやましい。

 この旅では、初めてブロードウェイで本場のミュージカルを何本か観た。ニューヨークに着いた最初の晩に劇場の窓口で、今夜の切符一枚ある?と聞いたら、「One orchestra」と念を押されたのにはあわてふためいた。この劇場、ミュージカルやってるんじゃないの?オーケストラのコンサートだったの?と。

 アメリカの劇場では、一階席のことをオーケストラ席と呼ぶことがわかるまで、しばらく時間がかかったものだった。一階はオーケストラの入っているオケ・ボックスと同じ階、だからオーケストラと呼ぶのだそうだ。

 めんどうなことに、これがイギリスへいくと、ストールズに替わってしまう。ロンドンの劇場街ウエスト・エンドで、窓口のおばさんにオーケストラなんていってごらんなさい。なにさ!アメリカかぶれのおのぼりさん、とギョロッと睨みつけられるだろうから。

 ストールズの単数ストールは、辞書によると昔の英語では“立っているところ”という意味だそうだ。昔、イギリスの劇場の平土間(日本の歌舞伎小屋ではこういうんです)は、立ち見席だったのかしら。

 という具合で、同じ英語でもイギリス英語とアメリカ英語ではずいぶんと違う。みなさんご存知のように、イギリスでリフト、オータム、アンダーグラウンドと呼ばれるものは、アメリカではそれぞれエレヴェーター、フォール、サブウェイとなる。

 大学一年生のとき、戦後一九四九年のベストセラー『自由と規律』で有名な池田潔先生に英語を習った。受験英語育ちの私は、たとえば遠足はエクスカーションとだけ、馬鹿のひとつ覚えのように暗記していた。だからイギリスではスクール・アウティングといういい方もあると教えられ、目から鱗が落ちたような気分を味わった。さすがパブリック・スクール(イギリスのエリート中学)出の先生は違うと感心したものだった。

 いつぞや三月のとある日、ニューヨーク五番街のティファニー本店に立ち寄ったら、日本の若い子たち(男の子もいたし、女の子もいた)がひしめき合っていてびっくりさせられたことがある。二階の陶器売り場へいこうと思って、エレヴェーターに乗ったら、いい年をした黒人の運転係が、「日本からのエクスカーションですよ」とつぶやき片目をつぶって見せた。うーん、さすがよく知っている。

 近ごろの二十代には卒業記念に「ティファニーへ遠足を」なんて、シャレ込む子が多いということだろうか。この店の前でパンをかじって朝食がわりなんてしゃれた子もいて欲しいけれど。(「GRAND MAGASIN」1996年4月号)