追悼、フィッシャー=ディースカウ
内外クラッシック音楽界の大物の死が相次ぐ。ドイツのディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウさん(バリトン歌手)、日本の畑中良輔(バリトン歌手・音楽評論家)、吉田秀和(音楽評論家)の両先生。
フィッシャー=ディースカウ享年86歳、畑中先生90歳、吉田先生98歳、3人そろって長命だったのがせめてもの救いだろうか。
吉田、畑中先生とは1960年代から音楽会でお会いすると、ふたことみこと会話するのが習わしとなっていた。ご高齢になられたので、おふたりのお顔を拝見する機会が、近ごろほとんどなくなってしまい、ずっと淋しい思いをしていたところだった。
フィッシャー=ディースカウの追悼記事では梅津時比古さん(毎日新聞専門編集委員)の書いた文章が、とくに心に残った。この芸術家への愛と理解が人一倍深いからだろう。簡潔で、しかも意を尽くしている。
「彼は古典から現代まで驚異的なレパートリーを持っていたが、なかでもシューベルトを通しての精神的な追求は徹底していた」「具体的にはテクストの詩の解釈と音楽的解釈を突き詰めたことである」(5月24日付け毎日新聞夕刊)
フィッシャー=ディースカウは、何度も来日しているが、最初にやって来たのは1963年(昭和38年)10月、日生劇場こけら落し、ベルリン・ドイツ・オペラの主要歌手のひとりとしてだった。そのときの『フィガロの結婚』のアルマヴィーヴァ伯爵は、歌も演技も軽妙にして重厚、迫力満点かつ繊細の極みだった。
50年前の舞台が目に浮ぶ。
当時から彼はすでに相当な大物だったが、無知な私は恐れを知らず突撃インタビューを試み、記事を書いた。お恥ずかしい一文だが、追悼の意を込めてここに再録する。
掲載されたのは週刊朝日63年10月25日号。多分、日本人による最初の単独インタビューではなかったろうか。
「”考えて歌う“バリトンに期待」
夕刻、宿舎の帝国ホテルで会った。面会時間は、たったの十五分の予定。それも、彼が昼寝をしすぎたという理由で、もっと短くなった。挨拶をして、二言三言しゃべると、もうリハーサルに出かける時間だという。
それでは、隣の日生劇場までゆく間でもと思ったが、ホテルの回転ドアを出たとたん、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウは、貝のように口をとじて語ろうとしない。
マネジャー氏が、あわてて説明したところによると、外気にふれてノドを痛めてはたいへんという配慮からだそうだ。
もちろん、日ごろ、刺激物はいっさい遠ざけている。ほかの人がビールで乾杯するときも、彼はミネラル・ウォーターしか口にしない。タバコも、日に一、二本、吸うか吸わないか。ノドという生きた楽器に対するあまりにも慎重な扱いぶりに、頭が下がるよりもなによりも、あっけにとられたというのが、私の偽らぬ感想だった。
フィッシャー=ディスカウは、来日したベルリン・ドイツ・オペラ一行のなかで、もっとも人気の高い、そして、もっとも期待をかけられているバリトン歌手。“今世紀最高のバリトン歌手”というふれ込みだが、彼の個人マネジャー、ヴァルネック氏によると、
「バリトン歌手にかぎらず、全歌手のなかで最高の一人」
と、話がますます大きくなってくる。
小沢征爾夫人の江戸京子さん(ピアニスト)が初めてパリでフィッシャー=ディスカウを聞いた晩は、興奮のあまり、明け方まで町をさまよい歩いたという話も伝えられている。京子さんは、
「彼をオペラのなかに入れてしまうのは、とてももったいない気がするわ。リサイタルでじっくり味わわなければ、、、、」
ともいう。
フィッシャー=ディスカウの若若しく甘い声に接すると、世の女性たちはおしなべてコロリと参ってしまうようだ。
フィッシャー=ディスカウは、二十日から始まった日生劇場の開場記念公演で、「フィデリオ」と「フィガロの結婚」の二作品に出演する。ほかに、二十六日に京都、三十一日に東京と、リサイタルを二回やる。東京でのリサイタルは、最高一万円という入場料にもかかわらず、たちまち売切れてしまった。そのため、汽車賃を使って京都まで聞きに出かける熱狂的ファンも、そうとう多いと聞いた。
フィッシャー=ディスカウは一九二五年、ベルリン生れ(一部の人名事典にロシア生れとあるが、ヴァルネック氏はまちがいという)。十九歳のとき召集を受け、ドイツ軍一兵氏として連合軍と戦った。
のちにイタリア戦線でアメリカ軍の捕虜となったが、収容所で「美しき水車小屋の娘」などを歌って、捕えられた戦友たちを慰めたものだそうだ。
「あの時代は、ほんとうにいまわしい思い出しかない。ナチの一兵士として戦場にあって、私の心は、いつも曇っていた。しかし、あのときは、ほかにどうしようもなかったのだ。戦争中は、私の苦難の時代だったといえる。あのときの苦しみを忘れず、それを今日に生かすことが、たいせつだと思う」
一見、柔和な顔つきだが、こう語るときの彼の表情のなかには、“戦中派”の苦悩が、ありありと浮んでいた。
彼は、考えて歌う歌手、思想的な完璧さを心がける歌手といわれている。
ただ声がすばらしいだけでなく、内容の把握力がすぐれているというわけだ。
そういうタイプの人だけに、戦争体験の傷も深かったにちがいない。意外なところに戦争の深い傷あとを見出した思いであった。
フィッシャー=ディースカウ享年86歳、畑中先生90歳、吉田先生98歳、3人そろって長命だったのがせめてもの救いだろうか。
吉田、畑中先生とは1960年代から音楽会でお会いすると、ふたことみこと会話するのが習わしとなっていた。ご高齢になられたので、おふたりのお顔を拝見する機会が、近ごろほとんどなくなってしまい、ずっと淋しい思いをしていたところだった。
フィッシャー=ディースカウの追悼記事では梅津時比古さん(毎日新聞専門編集委員)の書いた文章が、とくに心に残った。この芸術家への愛と理解が人一倍深いからだろう。簡潔で、しかも意を尽くしている。
「彼は古典から現代まで驚異的なレパートリーを持っていたが、なかでもシューベルトを通しての精神的な追求は徹底していた」「具体的にはテクストの詩の解釈と音楽的解釈を突き詰めたことである」(5月24日付け毎日新聞夕刊)
フィッシャー=ディースカウは、何度も来日しているが、最初にやって来たのは1963年(昭和38年)10月、日生劇場こけら落し、ベルリン・ドイツ・オペラの主要歌手のひとりとしてだった。そのときの『フィガロの結婚』のアルマヴィーヴァ伯爵は、歌も演技も軽妙にして重厚、迫力満点かつ繊細の極みだった。
50年前の舞台が目に浮ぶ。
当時から彼はすでに相当な大物だったが、無知な私は恐れを知らず突撃インタビューを試み、記事を書いた。お恥ずかしい一文だが、追悼の意を込めてここに再録する。
掲載されたのは週刊朝日63年10月25日号。多分、日本人による最初の単独インタビューではなかったろうか。
「”考えて歌う“バリトンに期待」
夕刻、宿舎の帝国ホテルで会った。面会時間は、たったの十五分の予定。それも、彼が昼寝をしすぎたという理由で、もっと短くなった。挨拶をして、二言三言しゃべると、もうリハーサルに出かける時間だという。
それでは、隣の日生劇場までゆく間でもと思ったが、ホテルの回転ドアを出たとたん、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウは、貝のように口をとじて語ろうとしない。
マネジャー氏が、あわてて説明したところによると、外気にふれてノドを痛めてはたいへんという配慮からだそうだ。
もちろん、日ごろ、刺激物はいっさい遠ざけている。ほかの人がビールで乾杯するときも、彼はミネラル・ウォーターしか口にしない。タバコも、日に一、二本、吸うか吸わないか。ノドという生きた楽器に対するあまりにも慎重な扱いぶりに、頭が下がるよりもなによりも、あっけにとられたというのが、私の偽らぬ感想だった。
フィッシャー=ディスカウは、来日したベルリン・ドイツ・オペラ一行のなかで、もっとも人気の高い、そして、もっとも期待をかけられているバリトン歌手。“今世紀最高のバリトン歌手”というふれ込みだが、彼の個人マネジャー、ヴァルネック氏によると、
「バリトン歌手にかぎらず、全歌手のなかで最高の一人」
と、話がますます大きくなってくる。
小沢征爾夫人の江戸京子さん(ピアニスト)が初めてパリでフィッシャー=ディスカウを聞いた晩は、興奮のあまり、明け方まで町をさまよい歩いたという話も伝えられている。京子さんは、
「彼をオペラのなかに入れてしまうのは、とてももったいない気がするわ。リサイタルでじっくり味わわなければ、、、、」
ともいう。
フィッシャー=ディスカウの若若しく甘い声に接すると、世の女性たちはおしなべてコロリと参ってしまうようだ。
フィッシャー=ディスカウは、二十日から始まった日生劇場の開場記念公演で、「フィデリオ」と「フィガロの結婚」の二作品に出演する。ほかに、二十六日に京都、三十一日に東京と、リサイタルを二回やる。東京でのリサイタルは、最高一万円という入場料にもかかわらず、たちまち売切れてしまった。そのため、汽車賃を使って京都まで聞きに出かける熱狂的ファンも、そうとう多いと聞いた。
フィッシャー=ディスカウは一九二五年、ベルリン生れ(一部の人名事典にロシア生れとあるが、ヴァルネック氏はまちがいという)。十九歳のとき召集を受け、ドイツ軍一兵氏として連合軍と戦った。
のちにイタリア戦線でアメリカ軍の捕虜となったが、収容所で「美しき水車小屋の娘」などを歌って、捕えられた戦友たちを慰めたものだそうだ。
「あの時代は、ほんとうにいまわしい思い出しかない。ナチの一兵士として戦場にあって、私の心は、いつも曇っていた。しかし、あのときは、ほかにどうしようもなかったのだ。戦争中は、私の苦難の時代だったといえる。あのときの苦しみを忘れず、それを今日に生かすことが、たいせつだと思う」
一見、柔和な顔つきだが、こう語るときの彼の表情のなかには、“戦中派”の苦悩が、ありありと浮んでいた。
彼は、考えて歌う歌手、思想的な完璧さを心がける歌手といわれている。
ただ声がすばらしいだけでなく、内容の把握力がすぐれているというわけだ。
そういうタイプの人だけに、戦争体験の傷も深かったにちがいない。意外なところに戦争の深い傷あとを見出した思いであった。