おととい、淡谷のり子の歌った「二人の恋人」について触れました。しかし、今の時代、大歌手だったとはいえ、彼女のことを知る人は少なくなったのではないか。そう思って彼女がこの世を去った際、私が書いた追悼文(1999年9月27日付、読売新聞)を再録することにしました。彼女の足跡を思い出すよすがとなれば幸いです。



 終生、“ブルースの女王”という肩書がついて回った。「別れのブルース」(昭和十二年)「雨のブルース」(十三年)と不朽の名唱を残しているからだ。
 しかし、彼女の訃報に接して、とっさに、またごく自然に私の胸に浮んだのは、“歌う昭和史”というフレーズだった。淡谷のり子のヒット曲とその生きざまをたどれば、そのまま血の通った昭和史となる。

 明治四十年、青森市に生を受ける。生家はかなり大きな呉服商だったが、大火、盗難、凶作で没落。さらに父親の道楽にも反発し、十六歳で上京。東洋音楽学校(現・東京音大)に進学するものの、生活は楽ではなかった。洋画家の前田寛治、彫刻家の朝倉文夫の裸体モデルを務めたのは、このころだった。
 淡谷は、もともと正統的な声楽を学び、クラシック歌手を志した。けれどクラシックでは食べていけず、次第に歌謡曲へと傾斜していく。そのため異端児として、母校の卒業者名簿から抹殺された。そういう偏狭な通念のまかり通る時代であった。
彼女はそれとけなげに戦う先駆者だった。

 “別れ”と“雨”の二大ブルースのヒットが、いっきょに彼女をスターの座に押し上げた。
二曲とも作曲(ともに服部良一)、作詞(“別れ”が藤浦洸、“雨”が野川香文)、そして歌唱が混然一体となったモダン調歌謡の一大傑作である。西欧のモダニズムと日本的情感がこれほど見事に融合した例は、ほかに多く見当たらない。昭和が終わって十年たった今でも、驚くほど新鮮に聴こえる。
 昭和初期、浅草レビューで「カルメン」「椿姫」のアリアを歌ったこともある。十一年にはシャンソン「暗い日曜日」、十四年にはタンゴ「ラ・クンパルシータ」のレコード吹き込みも行っている。洋楽の先取りという点でもれっきとした先駆者だった。
 戦時下、軍歌はきっぱり拒んだが、請われれば戦地へ赴き、兵士の前で持ち歌を披露した。
戦後では、いずみたくとの一連の仕事、小劇場ジャン・ジャンでの永六輔とのコンサートなどが記憶に新しい。

 昭和三十年代、よくヌードの殿堂、日劇ミュージックホールにゲスト出演した。楽屋を訪れると、いつも最高のシルクの楽屋着をはおり、当時入手が難しかったフランス製の香水をふんだんに振りかけていた。当時、五十代のはずだが、「今、恋しているのよ」と言って、共演中の男性舞踊手の名前を漏らしたりしていた。
 戦前、気鋭のピアニスト、和田肇と結婚している。当時の音楽学校出身者には珍しいリズム感は、彼から得たものだろう。
敗戦直後は、振付家矢田茂との恋が騒がれた。二人とも才能豊かな美男子だった。
 そういえば、「歌手の滋養は恋が一番よ」と口癖のように話していた。
 享年九十二歳。大歌手の大往生である。



淡谷さんは風格のある歌手だった。
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