きのうに続くエッセイの後半部分です。

日本人は長い時間をかけてピアフが好きになった(Ⅱ)

 前回のいちばん初めに書いたように日本では実際のピアフの舞台を知る人はほとんどいない。にもかかわらず、長年の間にエディット・ピアフは、年々その存在感を増してきた。誰もが、レコード、CDなどで聞く彼女の歌唱力に胸打たれるからだ。大衆歌謡のジャンルでこれほど豊かで奥ゆきのある表現力の持ち主は、そうざらにはいないだろう。

 ふと今、詩人の富岡多恵子さんが、ビリー・ホリデイ、美空ひばり、ピアフと3人並べて論じていたことがあるのを思い出した。

 伝記も「わが愛の讃歌/エディット・ピアフ自伝」(中井多津夫訳、晶文社)ほか何冊か出版されたし、映画も『愛の讃歌』(監督ギイ・カザリル、74年)『エディット・ピアフ~愛の讃歌』(監督オリヴィエ・ダアン、07年)などが公開されている。
 このような出版、映画がピアフの知名度を押し上げたふしも、大いにある。

とくにダアン監督版の映画は、主演、マリオン・コティヤールが好演しアカデミー賞主演女優賞を受賞したこともあって、若い世代にはこの作品でピアフを初めて知ったという人たちも、結構多いようだ。

 そう、さまざまな日本の女優、歌手たちがさまざまな脚本・演出で“ピアフの生涯”を演じてきたことも、忘れてはならないだろう。とりわけ越路吹雪、美輪明宏は、ことあるたびにピアフのシャンソンを歌い、私たちのなじみ深いものにしてくれた。

 1953年、最初にパリに遊んだ年の12月、越路は銀座ヤマハホールで第1回リサイタルを開いている。当時、ジャズ、シャンソン、ラテンを問わずポピュラー系歌手で、たったひとりぼっちでステージに立つリサイタルに挑戦しようとする人は、誰もいなかった。リサイタルという発想すら型破りだったろう。
 当時の檜舞台だった日劇、国際のショウに先輩後輩仲よく肩を並べて出演するというのが慣わしだったからだ。

 越路のリサイタルへの挑戦は、パリでピアフを目の当たりにしたその結果以外のなにものでもない。

 越路が初めて「愛の讃歌」を歌ったのは、52年9月、日劇ショウ『巴里の唄』においてだった。以来、ショウ、リサイタルを重ねるごとにピアフの歌ったシャンソンをふやしていく。「群衆」「あなたに首ったけ」「水に流して」エトセトラ……。

 そして、その頂点がドラマチック・リサイタル『愛の讃歌/エディット・ピアフの生涯』である。

 ピアフと越路は外見からして違った。片や小柄、片や大柄、そこが違い過ぎるくらい違っていた。越路の『春のリサイタル―巴里讃歌』(73年3~4月、日生劇場)のパンフレットで、フランソワーズ・モレシャンさんが、「ピアフは不健康な人でしたでしょう。越路さんはとてもお元気でしょう。」
 とやや皮肉を込めて語っている。

 とはいえ越路吹雪が、日本でピアフ教信者をふやす上で、もっとも有効な働きをした伝道師であることは間違いない。ピアフのシャンソンに潜む人生の温もりからつれなさまで、あらゆる情感を日本流に解きほぐして私たちに伝えてくれたのだから。

 生前、ピアフはシャントゥーズ・レアリスト(現実派歌手)と呼ばれていた。現実を凝視して歌う歌手とでもいったらいいだろうか。対照的に越路はシャントゥーズ・ファンテジスト、すなわち幻想に遊ぶ歌手といった風情がきわめて濃厚だった。

 この分類にのっとるならば、大竹しのぶはアクトレス・レアリスト(現実派女優)そのものである。“現実世界で愛と絶望に明け暮れ逞しく生き抜く役柄を演じさせたら、彼女の右に出る者はいない。歌に人生の喜怒哀楽というスパイスをふりかけるすべも心得ている。

 大竹がピアフの魂をつかまえるのか、ピアフの魂が大竹に乗り移るのかどちらかわからないが、そうなることはもう時間の問題でしかないだろう。

 

2011年シアタークリエ公演『ピアフ』のポスター。
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