*************************************************************** 今週はいつもと趣向を変え、私のアーカイヴから古い記事をとり出し紹介します。

2月初め江利チエミ三十一回忌にちなんでチエミとデビュー曲「テネシー・ワルツ」の話題を連続してとり上げたところ、多くの皆さん方が関心を寄せてくださいました。

実は私はチエミ本人、彼女の親友で“三人娘”のひとり雪村いづみとも親しく、彼女たちのインタビュー記事を書いているのです。
そして「テネシー・ワルツ」の元祖パティ・ページにも会っています。

そこで3人の昔の記事をUPしようと思い立ったわけです。いずれも週刊朝日に掲載されたものです。
彼女たちの横顔を少しでも知っていただければ幸いです。
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 十二月十日、NHKから江利チエミのところへ使者が立った。「紅白歌合戦」のことだと聞いたので、チエミは、てっきり、「曲目を、もっと知られているジャズか民謡にして欲しいとでもいわれるのかしら」と、思い込んで待った。

 当日の曲目として、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の主題歌「一晩じゅう踊れたら」を希望していたからだ。
 ところが、使いの人は彼女に向って、
 「ひとつ司会のほうも、、、、、」と切りだした。チエミが、あの利発そうな目をいっそう大きく見開いておどろいたことは、想像に難くない。

 それにしても、十二月十日といえば、NHKが「紅白歌合戦」出場メンバーの発表を予定していた日にあたる。その十日になって、チエミをくどきにかかったというのは、女性軍ホステスの人選に、よほど頭を悩ませたあげくのことと思われる。

 初め、NHKの心づもりでは、紅白の司会者は、去年に引きつづいて森光子の起用を予定していた。けれども、彼女は、東宝芸術座正月公演「越前竹人形」に主演するため、大みそかの夜は、その舞台げいことかち合って、東宝・菊田専務からOKが出ない。水の江滝子、横山道代の名前が浮んだが、いずれも“帯に短し、タスキに長し”で、すぐ消えた。困りに困り抜いて、チエミとのひざづめ談判となったわけだ。

 江利チエミは、人気といい実力といい、紅組のエース格である。ことしで、この番組に連続出演すること十一回。連続出演記録でも、ペギー葉山の十回、越路吹雪、芦野宏、春日八郎、三浦洸一、三橋美智也らの八回をおさえてトップに立っている。
 見事なキャリアというほかない。

 しかしあくまで、チエミはバリバリの現役歌手である。その彼女を女性軍司会者に引っぱり出したのは、プロ野球にたとえれば、国鉄スワローズの金田投手に監督を兼ねさせる、といったところか。

 チエミは、十二日朝、最終的にOKの返事を出すまで、二日二晩、さんざん考えあぐねた。もしチエミにふられたら、もう打つ手がないNHKが、いくぶんムリヤリにくどいたふしもあるが、日ごろ、なにごとにつけても慎重な彼女である。引きうけた以上、勝算あってのことにちがいない。

 「紅白歌合戦」の司会ともなると、すいも甘いもかみわけたはずの森光子でさえ、かたくなりがちであった。チエミをくどいたNHKも、きまってから彼女にアドバイスする人も、みんな判で押したように、
 「気楽に、いつものキミのペースでやればいいんだよ」といったらしい。

 あまり、そういわれると、かえって意識しがちになるものだが、「咲子さんちょっと」(TBSテレビ)で、彼女が見せる茶目っ気や屈託なさが、こんども発揮されれば、まず成功の見込み十分、と太鼓判を押しておく。と同時に、プレーイング・マネジャーである以上、歌手としての自分の経験からわり出して、紅組を引きたてたり、白組を軽くいなしたりして欲しいものだ。

 思えば、昭和三十八年は、江利チエミにとって印象深い年となった。「マイ・フェア・レディ」のヒット、百十八回続いた「咲子さんちょっと」の無事打上げ、そして「紅白歌合戦」の司会等々、、、、、、である。正月の「マイ・フェア・レディ」再演のあと、さて来年は、どんな仕事ぶりを見せることか。
 「来年は、もっともっと、じっくりプランをねって、お仕事しなくては、、、、」
という彼女は、いそがしい芸能界にはめずらしく、マイ・ペースで一歩一歩進むスターである。
(週刊朝日1963年12月27日号)



チエミのアルバムです。
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