2月5日、世田谷区瀬田の法徳寺で江利チエミ31回忌法要が営まれ、この不世出の歌手・女優の才能を慈しみ、早かったその死をいとおしむ親族、関係者、ファン50名ほどが集まった。

 会衆のなかにはジャズ歌手仲間として親密だったペギー葉山、映画『サザエさん』で主演チエミ相手にマスオを演じた小泉博らの姿もあった。

 チエミが亡くなったのは、1982年2月13日のこと。自宅のマンションのベッドでうつ伏せのままこと切れていた。美空ひばり、雪村いづみとともに“三人娘”の一角を担い、戦後芸能界の象徴的なスターだった。彼女らの明るい歌声によって老いも若きもどれだけ励まされたことか。それを思うとその死はあまりにも痛まし過ぎる。

 チエミは、1937年1月11日生まれ。ことしは生誕75周年ということになる。更に「テネシー・ワルツ」「家へおいでよ」でキングレコードからデビューしたのが52年だったから、もし存命ならば芸能生活60年を盛大に祝うことになったのではないか(そしてまた、没後30年という節目の年でもある)。

 チエミは驚くほど早熟だった。10歳のときから、当時、日本を占領していたアメリカ軍の慰問施設で歌っていたというのだから。レパートリーはジャズやアメリカン・ポップスである。レコードや米軍向けラジオ放送で耳から覚えたようだ。

 キングからのレコード・デビューは、52年1月新譜の1枚としてだった。1月11日生まれのチエミにとってはすばらしい誕生祝いになったことだろう。14歳か15歳のデビューだったわけだ。

 米軍キャンプ内で歌うときはすべて英語で歌ったろうが、同じジャズやポップスでも日本国内向けのレコードは英語、日本語ちゃんぽんで吹き込んだ。

 今、聴いても英語の発音のいいことにまず舌を巻く。それと対照的に日本語の部分は、おのずとなのか意識的なのか、かすかに日本的情感が漂う。総じてリズム感が傑出している。しかも少女の歌ではなく、おとなの歌になっている。

 53年、初渡米。なぜか淀川長治氏といっしょだった。羽田から出発のおり、タラップの上でふたりが手を振る写真が残っている(デビュー30周年記念アルバム「チエミ・グラフィティー」のライナーノーツに掲載されている。インターネット検索でも出て来る)。

 このアメリカ旅行の際、チエミは、ジャズ・ヴォーカルの女王エラ・フィッツジェラルドのナマの歌を聴き、ジャズとはこういうふうに歌えばいいのかと悟ったようだ。当時、毎日新聞記者(のちに音楽評論家)で、彼女をインタビューした伊奈一男氏の証言。(前記ライナーノーツより)。

 これは法要の席の挨拶でペギー葉山が語っていたことだが、チエミの死後、渡米したペギーがエラ・フィッツジェラルドに会ったところ、チエミの消息を尋ねられたという。
 「亡くなりました」と伝えると、エラは、
 「とても歌がうまい人だったのに、、、、」と残念がっていたそうだ。

 チエミは、エラのステージを見ただけでなく歌って聞かせるチャンスもあったのだろうか?

 三つの周年が重なることしは、チエミ関連のさまざまな復刻盤も企画されていると聞く。戦後昭和をともに駆け抜けた仲間のひとりとして、チエミ再評価の気運が盛り上がることを切に望む。


http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=10412



チエミさんの遺影です。
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江利チエミこと久保智恵美、ここに眠る。
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