52年前、『見上げてごらん夜の星を』はこんな風に誕生した | 安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba

52年前、『見上げてごらん夜の星を』はこんな風に誕生した

坂本九の同名のヒット曲を生んだミュージカル『見上げてごらん夜の星を』が、再演されました。(1月20~31日、アトリエフォンテーヌ)。いずみたく作曲の名作です。
そのパンフレットのために作者の永六輔さんと対談したので、ここに転載します。この作品については当ブログ1月12、13日掲載分をお読みください。



――『見上げてごらん夜の星を』初演時の昭和35年は、おふたりが27歳の頃ですね。
永 あの頃は安倍さんのことが怖かった(笑)。

安倍 若造のくせに生意気だったってことでしょう(笑)。このミュージカルを語るには、まず、制作した大阪労音を語らないといけないですね。そこに浅野翼という敏腕プロデューサーがいたのですが、永さんとはそもそもどういうおつきあいだったんですか?

永 学生時代、いろんなアルバイトをしていた中に「三人の会」があって、新進の作曲家だった團(伊玖磨)さん、芥川(也寸志)さん、黛(敏郎)さんの写譜を手伝ったり、走り使いをしていたんです。その関係で芥川さんに、「今度大阪でミュージカルを演るから手伝え」と言われたのが、大阪労音制作のミュージカルでした。そこで浅野翼と出会って、ブタカン(舞台監督)をやらせてもらうことになったんです。当時、僕は若いのに、新派とかあちこちでブタカンをやらせてもらっていたから。そのうち若い者は若い者で集まって何かやらないかという話になった。それが『見上げてごらん夜の星を』に繋がるんです。

安倍 浅野翼は、お花の未生流の家元令嬢と結婚したから、経済的に潤沢で、よくご馳走してもらいました。

永 僕もだいたい同じ立場(笑)。それに、ベースになっているのがフェスティバルホールだったから、同じ屋根の下にあった大阪グランドホテルに泊まれたんです。当時大阪で一番ゴージャスなホテルに、我々学生もどきが何ヶ月も(笑)。これにまずびっくりしました。これだけのつきあいは東京労音にはできませんよ。いかに浅野翼というプロデューサーが凄腕だったか、今になると本当によくわかる。

安倍 浅野は大阪を拠点に新しい芸術運動をやりたいと思ったけど、永さんを含めて、やっぱり新しい芸術家は東京にいるわけですよね。だからめぼしいクリエイターに目をつけて、大阪へ連れて来ようという意図があった。僕もその頃、物書きとしての芽が出て来たところだったのですが、すぐ浅野が、大阪の機関紙に連載を頼んできました。彼は、右でも左でもない、何か新しいこと、世の中がひっくり返るようなことをやりたかったんでしょうね。

永 大阪の市長になった橋下(徹)さんっているでしょ? あんな感じ。

安倍 それは面白い見方だな。浅野翼は当時の芸術運動における橋下市長だったんだ。

永 みんなが東京に憧れている時に、「大阪から世界へ」と言った人なんですよ。

――安倍さんは、『見上げてごらん夜の星を』の初演をご覧になった時、どんな印象をお持ちになりましたか?
安倍 まず日本の素材だということ。しかも主人公が夜学生というのが、非常に目新しかった。ミュージカルというのは、美しい男女が出てきて恋をするでしょう? それが、必ずしも恵まれていない環境の人たちが主人公の物語、いわゆるハリウッド的、ブロードウェイ的ボーイ・ミーツ・ガールでないものが突然出てきたんです。日本のこういう題材もミュージカルになるというのは、ショックであり、新鮮でした。日本という国にちゃんと根ざした物語で、それに非常に親近感を覚えた。舞台と客席との距離が縮まりましたよね。これはまず題材の勝利だと思います。

永 僕は、戦後すぐ、市ヶ谷の三木鶏郎の事務所にもいたんだけど、その事務所から通りを一つおいて、キスミー化粧品の工場があったんです。その前を通ると、トラックの荷台で、アコーディオンを弾いて歌唱指導している男がよくいるの。それがいずみたくでした。

安倍 労働組合で歌を教えていたんですね。

永 それで、TBSラジオでドラマが始まった時、音楽をやりませんかと声をかけたんです。だからトラックの上でしなびたジャンパーを着て(笑)、アコーディオンを弾いているのが、僕のいずみたくのイメージで、その後、曲がヒットしたり、劇場を作ったりしてるのは、僕のいずみたくじゃないんですよ。

安倍 わかるような気がします。『見上げてごらん』の頃は、永六輔といずみたくの一番いい時代、短いゴールデンエイジの最高傑作なんですね。それから印象に残った二つめは、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ。音楽バラエティ番組の「光子の窓」で、当時ものすごく人気がありましたけど、その彼らが子供の役を演ったのも面白かった。

永 子役と言えば、64年の再演時、藤山寛美が小さい女の子を連れて来るんですよ。「このミュージカルには女の子の役があるけど、なんとかウチの娘を使ってくれ」って。藤山直美を生んだのは、実はこのミュージカルなの。

安倍 その再演は梅田コマ劇場が買って上演するんですよね。労働組合側が作った物を資本家側の劇場が演るなんて、東京じゃ考えられない。この作品は興行面から見ても、非常に珍しいケースなんですよ。ところで、なぜ夜学の学生を主人公にしたんですか?

永 僕も早稲田の定時制だったから。それに主人公は地方出身なんですけど、当時は、集団就職の中学生、高校生が大阪や東京にドッと来た時代です。それが都会へ出て来てから少し経って、そろそろ故郷に帰ろうかなっていう、北島三郎が「帰ろかな」(中村八大作曲)って歌うのと同じ時期なんですよ。あの歌も僕が作ったんだけど、その辺が時代の背景にありますね。

安倍 昭和30年代半ばの話ですね。集団就職で都会へ出て来た人たちの望郷の思いとどこかで重なるんだ。やっぱりミュージカルは時代を描くことが必要なんですね。

永 『見上げてごらん』も初演から50年経って、また舞台になるわけですけど、久しぶりに上演するのではなく、時代が50年ぶりに戻って来ているんです。今、地震と津波で大騒ぎをしているけれど、あの頃も夢もない、希望もない、何もないという時代でした。

安倍 あの時代、必ずしも我々の生活環境は十分豊かではなかったけど、希望を求める気配がどこか世間的にあったのかもしれない。それを詩人である永さんは、無意識にキャッチしたんじゃないかという気がするんだけど。震災後のサントリーのCMで、「上を向いて歩こう」と「見上げてごらん」をくっつけて流していましたね。だから、なんだかこの2曲は双子みたいだけど(笑)、“見上げて”とか“上を向いて”とか、偶然なのか、アップを意味する表現が両方に出てきますね。

永 どうしてでしょうね(笑)。でも一つ言えるのは、日本にもいろんなミュージカルがあるけど、この「見上げてごらん夜の星を」という曲は、その中から唯一ヒットしたミュージカルナンバーなんです。アメリカの場合は、ミュージカルの中からヒットした曲がスタンダードナンバーになるけど。そういう意味でも、再演されるのは嬉しいんですよ。

――他に印象に残った曲はありますか?
安倍 日本のミュージカルはコミックソングがうまくないんだけど、夜の教室で歌われる「チャチャチャで勉強」は自然に笑えますね。当時は野坂昭如作詞、越部信義作曲の「おもちゃのチャチャチャ」とか、チャチャチャが流行っていたんですよ。あのコミックナンバーは素晴らしい。

永 安倍さん、あの頃はこんな風に褒めてくれなかったよね(笑)。怖かったんだから。

安倍 いじめないでくださいよ(笑)。それと、初演の時は橘薫さんが出てらっしゃったでしょう。彼女は宝塚出身のスターなのに三枚目もできた。日本のエンターテイナーとして最高の人ですよ。橘さんは誰のご指名だったんですか?

永 たくちゃん。彼はお母さんの影響で、子供の頃から宝塚ファンだから。この作品がレコードになる時に、再演にも映画版にも出演していない越路吹雪がこの役を引き受けたのは、宝塚で先輩の橘さんが演っているからなんです。

安倍 いや、それも面白いエピソードですねえ。まだ話は尽きないなあ。

(司会土屋友紀子、構成・文原田順子)


ふたりの間で話が尽きることがなかった。
安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba


左より恋人同士を演じる水谷圭見、大塚庸介、泉川役の井上一馬。
安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba


フィナーレの大合唱。
安倍寧オフィシャルブログ「好奇心をポケットに入れて」Powered by Ameba


撮影:日高 仁