80年代、ロンドンで初演され、名作の誇り高いミュージカル『チェス』が、コンサート型式ながらやっと日本で上演されることになりました。
 昨夜が東京公演の初日でした。出演者は安蘭けい、石井一孝、浦井健治、中川晃教と実力派スターが勢ぞろいしています。

 この公演のパンフレットに原稿を書いたので本ブログにも転載します。以下本文です。


 1980年代というのは世界のミュージカル界にとってどのような時代だったのか。ひと口で云うとロンドン・ウエスト・エンド発の作品が、世界の市場を席捲した10年だった。

 『キャッツ』(81)『ミー・アンド・マイ・ガール』(85)『レ・ミゼラブル』(85)、『オペラ座の怪人』(86)エトセトラ……。
 これらの作品が、ブロードウェイはもちろん、東京でももてはやされたことはいうまでもない。

 同年代の話題作ながら、ひとつだけ日本で例外的に紹介されなかった作品が『チェス』である。1986年5月14日初日、ほぼ3年間続演し、1102回の上演記録を残しているにもかかわらず。

 公演が始まる前から話題性にこと欠かなかった。まず作詞が『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エヴィータ』などを手掛けたティム・ライスであり、しかも彼が、これらの作品をともに世に送り出したアンドリュー・ロイド・ウェバーとたもとを分かち、ほかの作曲家と手を組んだ第一作だったからだ。

 しかも、その新しい相手というのが、超人気ポップ・グループ、アバのふたりビョルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンだったのだから、驚かないほうが不思議というものだろう。

 しかし一方、ポップスの王者だからといって長尺で多種多様な楽曲を書き分けなければならないミュージカルが、果たして彼等の手に負えるのかという心配も聞かれないではなかった。

 結果的にふたりは、彼等をこの仕事に引きずり込んだライスの期待に応え、見事なスコアを書き上げた。総体的には屹立する伽藍のような強烈なイメージを打ち出しながら、個々のナンバーは観客の胸にぐっと食い入る魅力にあふれている。

 舞台上演前にコンセプト・アルバムをリリースし、前景気を煽るというのは、ティムとアンドリューが『ジーザス』『エヴィータ』などで試みてきた手法だが、ティムは『チェス』でもこの手で大成功を収めている。アルバムのなかの2曲、ディスコ・ラップ調の「ワン・ナイト・イン・バンコック」、バラッドの佳曲「アイ・ノウ・ヒム・ソウ・ウェル」が、イギリス初め欧米で超ヒットとなったのである。

 EMIで働いていたこともあり、ポップスのヒットの何たるかを知り尽くしているティム・ライスだから出来た離れ業である。

 余談だが、のちに『マンマ・ミーア!』というメガ・ヒット作を生み出すことになるプロデューサーのジュディ・クレイマーは、当時『チェス』の現場でティムの助手を務めていた。それが縁でビョルン、ベニーと知り合い、アバのカタログ・ミュージカルへと発展するのだから、ショウ・ビジネスの世界の人と人との繋がりほど面白いものはない。

 『チェス』は、一見ミュージカルにはふさわしからぬ東西冷戦、すなわち社会主義諸国と資本主義諸国の対立が主題である。この作品を推し進めてきた中心人物は、もちろんティム・ライスだが、なぜこのような題材を選んだのか?

 彼は、前作『エヴィータ』でも政治に翻弄されるひとりの女性エヴァ・ペロンをヒロインに据えている。『ジーザス~』にしても、ひとりのカリスマとその直弟子との対立、更には付和雷同する大衆との係わり合いという点では、一種の政治劇と受けとれなくもない。

 私には政治はティム・ライスの好む題材のように思えるのだけれど――。

 もっとも、手だれのティムが政治を剥き出しのままミュージカルのなかに放り込むわけがない。ソ連とアメリカのチェス・プレイヤーを主役に立て、冷戦の象徴的役割を背負わせている。
 いや先に東西プレイヤーの対決というネタがあり、おのずと冷戦が絡んだのか。

東西冷戦は過去のこと、今となっては歴史の彼方という人もいるだろう。なるほど東西の“壁”は崩れた。しかし、ほんとうに崩れたのか。それに新たな対立が世界中で起きている。

 地球が存在する限り、人類がそこに棲息する限り、政治的、宗教的、人種的、その他各種各様の対立が消えてなくなることはあるまい。『チェス』の描く対立という主題は、身近かなものとして存続し続けることだろう。
 それに恋模様だって抜かりなく組み込まれているし。

 ティム・ライスは、チェスはどこまで好きかわからないが、大のゲーム好きで、クリケットに関してはプレイも観戦も玄人はだしえある。このミュージカルにもその体験に根差したゲームの妙味がそこここに隠し味のように盛り込まれているにちがいない。

 振り返ればロンドン初演から25年以上の歳月が流れた。初日の観客の多くが、女性なら市松模様のスカーフ、男性なら同じ模様のネクタイと、演目にちなんだワン・ポイントのお洒落を決め込んでいたのが、改めて思い出される。
 そういえば片方の頬に黒白チェックのペインティングをした女の子も見掛けた。

 ミュージカルにはコンサート型式の上演が向いているものといないものがある。音楽性が弱かったりダンス重点のものは不向きのはずだ。逆に詞、曲が洗練されているスティーヴン・ソンドハイム作品は、コンサート版がよく似合う。

 『チェス』の音楽は交響曲的編曲にもいささかも動じないので、この上演形態のほうが演出過剰に陥らず、むしろふさわしくさえある。

 『チェス』日本初演、失敗は許されませんぞ。



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