去る1月20日、「戦前の昭和に花開いたスウィング・ジャズ」という拙文をUPした。戦前の一時期、ジャズ、シャンソン、タンゴなどあらゆる“舶来音楽”が、大いにわが世の春を謳歌したが、最近それらの音源が復刻され、今改めて楽しむことができるという内容である。
そうしたら、Jasmomさんという方から(いつもご愛読深謝します)、
「これら戦前のバンドの方々、戦中戦後はどのようにお過ごし(ご活躍?)だったのでしょうか」
というコメントが寄せられた。
それはもちろん、戦争が激しくなるにつれ、その種の音楽は弾圧されましたよ。対中国の戦争が泥沼化した昭和15年には全国のダンスホールが閉鎖の浮き目に遭っている。同年10月31日をもって営業打ち切りとなったのである。
昭和19年6月には政府から「軽音楽改革」という指示が出され、そのなかには「バンド内でサックス二本以上使用禁止」といった具体的禁止項目をまれていたという。サックスのかわりにヴァイオリンを代用したバンドもあったらしい。
戦前、私たちの想像を超える本格的なポップスがおシャレで愉快なサウンドを競い合っていたが、いかにその担い手たちが弾圧をくぐり抜け生き伸びたかについては、次の2冊を是非参考にしていただきたい(実は私も、今、それらの本を横に置いて頁をめくりながら書いているところです)。
瀬川昌久著『ジャズで踊って/舶来音楽芸能史』(清流出版)
瀬川昌久+大谷能生『日本ジャズの誕生』(青土社)
2冊目の一部音楽は青土社HP、www.seidosha.co.jpで試聴できるようだ。
戦前の舶来音楽がそこでストップしたわけではなく、現代にきちんと繋がっていることを示す歴史的例証(なにやら大げさですが)をひとつ挙げておきます。
平井堅の歌で広く知られる「大きな古時計」(保富康午訳詞、ヘンリー・クレイ・ワーク作曲)ですが、実はこの曲、昭和15年(1940)に「お祖父さんの古時計」という題名でレコーディングされているんですね。作詞門田ゆたか、編曲仁木多喜雄、歌ミミー宮島、
伴奏コロムビア・ジャズ・バンド。
『日本のジャズ・ソング~スウィングする二世歌手と戦中かくれジャズの軽音楽』(コロンビア)というアルバムに収められている。
ミミー宮島は、アメリカ生まれの日系二世でタップもうまかった。ポップスを歌うにはやや高音のきらいなきにしてもあらず。しかし上品な歌いぶりなので適度に耳もとをくすぐってくれる。
『日本ジャズの誕生』から瀬川、大谷両氏の対談を引く。
瀬川 「お祖父さんの古時計」なんか聴くと、あのころの技術レベルはすごいですね。
大谷 すごい複雑なことをやっていますね。非常にモダンです。
瀬川 バックもずいぶんモダンになっている。
大谷 仁木さんのアレンジは端正というか、細部まで手が行き届いている感じですね。このサウンドは、どこからもってきたのかなあ。
瀬川 ジーン・クルーパが、グッドマンから独立して自分のバンドをつくって、そのときに録(い)れているんですよ。でも日本に入ってきたかおうかが問題ですよね。、、、、一九三八年だから、日本にはいったかもしれない。ジーン・クルーパは当時、コロンビア版がはいってきたんですね。だからあるいは、、、、。仁木さんはそういうのを上手に取り入れるのが大天才。戦後も、クレン。ミラーを早速うまくやったりして、、、、。
ジーン・クルーパはジャズ史上最大のドラマーである。グッドマンはもちろんスウィングの王様、クラリネット奏者ベニー・グッドマンのこと。グレン・ミラーはトロンボーン奏者でバンド・リーダー。この辺に注釈はつけたくないが、ご時世で仕方ないか。
ミラー、グッドマンにはそれぞれ伝記映画『グレン・ミラー物語』(54)『ベニー・グッドマン物語』(55)が作られている。
戦前のスウィング・ジャズのもてはやされようを知らない私たち世代は、この2本を戦後公開時に見て、初めて「スウィングしなけりゃ意味がない」というその意味を実体験したのでした。