永六輔さんと対談をしました
サントリーが、東日本大震災復興支援CMとして「上を向いて歩こう」と「見上げてごらん夜の星を」を同社ゆかりの歌手、俳優たち総動員の上で、繰り返しオンエアしたことは、まだ記憶に新しい。
コラムニストの天野祐吉さんが、朝日新聞に長期連載している「CM天気図」で、「お見舞いCMと企業CMのしぶとい二枚腰」と書いていたが、さすが鋭いポイントを突いた名言であった。
ところで、この2曲のうち「上を向いて」は全米ヒットチャート第1位に輝いた曲だから、知らない人はいないだろうが、「見上げてごらん」の知名度はそれほど高くないかもしれない。
共通するのは坂本九のヒット曲であること、作詞が永六輔だということだ。作曲は「上を向いて」がジャズ・ピアニスト出身の中村八大「見上げてごらん」はCMソングで腕を揮っていたいずみ・たくだった。
「見上げてごらん夜の星を」は、同じ題名のミュージカル(作・作詞・演出永六輔、作曲いずみ・たく)のいちばんメインの楽曲として作られた。このミュージカルの主人公、夜間高校生を九ちゃんが演じたこともあり、彼のレパートリーになったのである。
このミュージカル『見上げてごらん夜の星を』が久しぶりに上演される(1月20日~31日、アトリエフォンティーヌ)。演じるのは亡きいずみが遺したミュージカル集団イッツフォーリーズである。
去る8日、この公演用パンフレットのために作者の永さんと対談をやった。於帝国ホテル、オールドインペリアルバー。
「昭和30年代の初演を知っているのは安倍さんぐらいだろうから」
と永さんが云っていると、今回の公演のプロデューサーから聞いたからだ。
広く報道されているように、去年11月16日、自宅内で、永さんは転倒し、大腿骨頸部を骨折、もっか手術後のリハビリ中だが、この日は車椅子ながら至って元気で対談も大いに盛り上がった。
永さんと私は、1950年代の終わり頃からお互いに顔見知りである。60年の安保反対闘争をいっしょにやったくらいだから。しかし、彼の云うようにこうしてきちんと対談するのは初めての出来事だ。
永さんとは昭和一桁同年生まれ、昭和、平成の芸能界を忙しく駆け抜けた者同士としては、ツーと云えばカーと呼吸が通じ合い、いくらでも話し合っていられそうに思える。
公演パンフレットが劇場で売られる前にここでその内容を明かしてしまうのはまずいと知りつつ、こっそり紹介します。
永さんがいずみ氏の姿を初めて見たのは市ヶ谷駅近くキスミー化粧品(株式会社伊勢半)の前で、いずみ氏は、トラックの荷台にアコーディオンを抱え、歌唱指導をしていたという。
いずみ氏は、当時、筋金入りの左翼で“うたごえ運動”に熱中していたはずだから、あり得ることだ。
その後間もなく、永さんは、彼を自らが深く係わり合いのあった三木鶏郎の「冗談工房」に誘うことになる。
トリローこと三木は政治・社会風刺と音楽を結びつけたパイオニア(主にラジオで活躍した)だが、コマーシャル・ソングの名手としても知られる。
いずみがコマソン作曲家として成功を得たのは鶏郎門下生になったからだ。
「見上げてごらん」が大阪・梅田コマで上演されることになったとき、松竹新喜劇で売り出し中の藤山寛美は幼い娘を連れて来た。寛美の頼みはこの子を使ってくれということだった。
その子が現在の藤山直美である。
松竹新喜劇といえば、永さんは、座長で座付作者の渋谷天外に劇団に入り本を書かないかと求められたことがあるという。
天外は才人だった。永さんまた然り。才能ある先輩は才能ある後輩を見抜く眼力があるということか。
永さんとはまた別のテーマで対談しようということで、この日は別れた。
http://www.allstaff.co.jp/ticket2.html
コラムニストの天野祐吉さんが、朝日新聞に長期連載している「CM天気図」で、「お見舞いCMと企業CMのしぶとい二枚腰」と書いていたが、さすが鋭いポイントを突いた名言であった。
ところで、この2曲のうち「上を向いて」は全米ヒットチャート第1位に輝いた曲だから、知らない人はいないだろうが、「見上げてごらん」の知名度はそれほど高くないかもしれない。
共通するのは坂本九のヒット曲であること、作詞が永六輔だということだ。作曲は「上を向いて」がジャズ・ピアニスト出身の中村八大「見上げてごらん」はCMソングで腕を揮っていたいずみ・たくだった。
「見上げてごらん夜の星を」は、同じ題名のミュージカル(作・作詞・演出永六輔、作曲いずみ・たく)のいちばんメインの楽曲として作られた。このミュージカルの主人公、夜間高校生を九ちゃんが演じたこともあり、彼のレパートリーになったのである。
このミュージカル『見上げてごらん夜の星を』が久しぶりに上演される(1月20日~31日、アトリエフォンティーヌ)。演じるのは亡きいずみが遺したミュージカル集団イッツフォーリーズである。
去る8日、この公演用パンフレットのために作者の永さんと対談をやった。於帝国ホテル、オールドインペリアルバー。
「昭和30年代の初演を知っているのは安倍さんぐらいだろうから」
と永さんが云っていると、今回の公演のプロデューサーから聞いたからだ。
広く報道されているように、去年11月16日、自宅内で、永さんは転倒し、大腿骨頸部を骨折、もっか手術後のリハビリ中だが、この日は車椅子ながら至って元気で対談も大いに盛り上がった。
永さんと私は、1950年代の終わり頃からお互いに顔見知りである。60年の安保反対闘争をいっしょにやったくらいだから。しかし、彼の云うようにこうしてきちんと対談するのは初めての出来事だ。
永さんとは昭和一桁同年生まれ、昭和、平成の芸能界を忙しく駆け抜けた者同士としては、ツーと云えばカーと呼吸が通じ合い、いくらでも話し合っていられそうに思える。
公演パンフレットが劇場で売られる前にここでその内容を明かしてしまうのはまずいと知りつつ、こっそり紹介します。
永さんがいずみ氏の姿を初めて見たのは市ヶ谷駅近くキスミー化粧品(株式会社伊勢半)の前で、いずみ氏は、トラックの荷台にアコーディオンを抱え、歌唱指導をしていたという。
いずみ氏は、当時、筋金入りの左翼で“うたごえ運動”に熱中していたはずだから、あり得ることだ。
その後間もなく、永さんは、彼を自らが深く係わり合いのあった三木鶏郎の「冗談工房」に誘うことになる。
トリローこと三木は政治・社会風刺と音楽を結びつけたパイオニア(主にラジオで活躍した)だが、コマーシャル・ソングの名手としても知られる。
いずみがコマソン作曲家として成功を得たのは鶏郎門下生になったからだ。
「見上げてごらん」が大阪・梅田コマで上演されることになったとき、松竹新喜劇で売り出し中の藤山寛美は幼い娘を連れて来た。寛美の頼みはこの子を使ってくれということだった。
その子が現在の藤山直美である。
松竹新喜劇といえば、永さんは、座長で座付作者の渋谷天外に劇団に入り本を書かないかと求められたことがあるという。
天外は才人だった。永さんまた然り。才能ある先輩は才能ある後輩を見抜く眼力があるということか。
永さんとはまた別のテーマで対談しようということで、この日は別れた。
http://www.allstaff.co.jp/ticket2.html