前回、前々回で青江三奈が全篇英語で歌うジャズ・アルバムを、リズム感、フレージング、ムードから見て“本場もの”にきわめて近いと絶賛しつつも、結論的には“日本のジャズ”だと位置づけた。

 日本の女性歌手独特のしっとりとした情感が、その歌にどことなくまとわりついているからだ。

 実はその一種の湿り気こそ私たち日本人には心地よいし、心に沁みるものではなかろうか。

 復刻盤『青江三菜/懐しの映画音楽を唄う』(ビクターエンタテインメント)の歌の数々は、原曲こそ欧米のものなのだが、歌詞が日本語主体(一部英語のみ、英語やスペイン語とのチャンポンもある)なので、彼女の日本女性らしい優しさがそくそくと伝わって来る。

 たとえば、あのジャズ・スタンダード曲として超有名な「煙が目にしみる」をなんとオール日本語で歌っているのだが、なんの違和感もなく、上質のポピュラー曲としてすんなり受け入れることができる。

 ジャズ・ヴォーカルではない。歌謡曲でもない。ここにあるのは、アメリカの原曲を大切にしつつ日本的情感で巧みにくるんで見せた和洋折衷の味わいである。

 日本人はいわゆる洋食が好きでしょう。コロッケ、えびフライ、トンカツ、ビーフシチューとか。そうだ、青江の洋楽曲はまさに洋食の味と香りに通じるものがあるのでは。

 青江のこのアルバムでのレパートリーは実に幅広い。シャンソンの「巴里の屋根の下」、コンチネンタル・タンゴの「小さな喫茶店」、ラテン・ナンバーの「タブー」となんでも来い。

 もちろん自由自在の歌唱力があればこそ。多分、銀座の小さなクラブで歌っていたときは、こういうふうにあらゆるジャンルをこなせなくては商売がなり立たなかったのだろう。

 「巴里の屋根の下」に滲み出るパリの下町の味わいなど、そこらそんじょの日本のシャンソン歌手が逆立ちしたって追いつけっこないだろう。

 逆に「小さな喫茶店」なんかドイツ産とは思えないくらい日本の歌謡曲になり切っている。

 このような曲目の幅の広さ、それらの曲を軽々と歌いのけてしまう実力は、ちあきなおみもに共通するものである。

 洋楽と歌謡曲、どちらもいけたということでは青江はちあきの先輩格か。

 ちあきのシャンソン、ファド(オール日本語の歌詞)も絶品ですぞ。これについてはまた改めて。

 昭和歌謡にあって平成J-POPにないもの、それは洋邦二刀流のおとなの女性歌手という存在である。



『青江三奈/懐しの映画音楽を唄う』の紙ジャケットです。
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